母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20151130

仕事が終わって地下鉄で病院に向かう途中、Twitter水木しげる先生が亡くなったことを知った。正確に言うと、みんなが水木先生の話をしていたので「亡くなったんだな」と思っただけで、公式な訃報には触れていない。

 

台所で母親が夕食の準備をしている気配を背中で聞きながら、『ゲゲゲの鬼太郎』の再放送を面白いとも面白くないとも思わずただ見ていたこととか、NHKでやっていたドラマ版の『のんのんばあとオレ』は面白くて夢中になって見ていたこととか、正直それくらいしか思い出はない。でも素直に残念だと思った。人が死ぬのは残念なことだ。誰であれいくつであれ、それはそんなに変わらない。

小さい頃洋画を観ていて、お悔やみを伝える場面で「残念だったわね」という字幕が表示されると、妙な気分になった。「sorry」という単語とも、意味合いがうまく結びつかなかった。「残念」っていうのは、たとえばすごく努力したけど思うような結果が得られなかった時とかに使う言葉で、人が死んだ時に使うのにはそぐわないんじゃないか、これは正しい訳なのだろうか? と思っていた。

でもいつからか、人が死ぬのは残念なことだと思うようになった。悲しいと思うより先にそう思うようになった。仕方ないな、でもとても残念だな、と。

 

父方の祖父の葬式で、わたしは少しも悲しいと思わなかった。悲しいと思えるほど、深い付き合いがなかった。というかよりはっきり言うと祖父母とあまりいい関係を築けていなかったので、今、祖父と交わした会話を思い出そうと記憶を掘り返しているけれど、ただの一言も出てこない。

通夜の夜、祖父の遺体のそばで、寿司を食べたことは妙にはっきりと覚えている。

遺体のそばで食べる寿司はどんな味だろうと思ったが、寿司は寿司の味だったし、食欲も普通に湧いた。ネタが渇いていて、シャリがうまくまとまっていなくて、味音痴の自分にも、大した寿司ではないことが分かった。寿司を食べながら祖父の顔を見ると、ぬらりひょんに似ていた。生きている時から似ていたが、死んだことでより一層似たな、と思った。不謹慎だと思ったが、思ってしまったものは仕方ない。

 

焼かれた祖父の骨には、ところどころ蛍光マーカーみたいな鮮やかな色がついていた。「これ、何の色ですか」と親戚の誰かが訊いて、「飲んでいた薬のせいではないか」というようなことを火葬場の人が言った。

骨壺に骨を納める段になって、それまでぼんやりしていた祖母が突然取り乱して驚いた。斎場から火葬場に向かうバスの中で酔ってしまい、頭が痛くて早く帰りたかった。遅れてやってきた兄は、制服を着崩していて、ズボンからパンツが半分くらい出ていた。

 

祖父はいわゆる成金で、大きな家に住んでいた。庭は純和風に整えられ、池にはでっぷりとした錦鯉が泳いでいた。羽振りが良く面倒見がよかったようで、わたしが幼い頃は素性のよく分からない取り巻きのような人たちが何人かいて、その謎のおじさんたちにお嬢さんお嬢さん、とちやほやされた時期もあったが、祖父が病床についたのを機に、そうした人たちはみんな離れていったようだった。

 

そのうちのひとりが、葬式に来ていた。

後日そう言うと、どういうわけか父も親戚も誰もその人の姿を見ていないと言い、「人違いじゃないか」と言われたが、あれは確かにあの人だった。かつてどう見ても堅気らしくない時代錯誤な三つボタンのスーツに身を包み、高級車を乗り回していたその人は、古ぼけて汚れたジャンパーを羽織り、作業ズボンのようなものを履いて、片足を引きずっていた。老いてやつれた面差しに、昔の名残りが少しだけ見えた。その人は棺の中の祖父の顔を、随分長いこと見つめていた。

 

人が死ぬと、誰かが死んだ時のことを思い出す。

わたしは祖父のことをよく知らなかったし今も知らないが、つかの間の夢のようないい時代を少し共有しただけであろう素性のよく分からない人に、死に顔をじっと見つめられるような人だったのだ、と思ったことを、今、何年かぶりに思い出している。

 

あの人のあのまなざしは何だったのだろうと思う。悲しみか、懐かしさか、あるいは恨みか。

あの人も、ただ残念だと思っていたのかもしれない。年齢不詳な人だったが、今も生きているだろうか? もし、もう死んでいたら、葬式はちゃんと出してもらえたろうか。そこに死に顔をじっと見つめる誰かはいただろうか。

人が死ぬと自分が死ぬ時のことも考える。わたしが死んだら葬式は行われるだろうか。死に顔をじっと見つめる人はいるだろうか。

 

婚約者は「考えても仕方のないことはなるべく考えないようにしなよ」とよく言う。

でもわたしは考えても仕方のないことを考えずにはいられない。意味も脈絡もなく、正確かどうかも分からない、思い出しても仕方のない記憶の断片を継ぎ合わせたのが今のわたしだと思うからだ。

あの人がもし死んでいたら、悲しくはないが、残念だと思う。

でも顔はうまく思い出せなかった。スーツと黒塗りの高級車しか、もう思い出せない。

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20151003

定期的に薬をもらいに行っている婦人科で、勧められるままに検診を受けたら、左の卵巣が腫れていることが分かった。

 

「野球ボール……いや、テニスボールくらいの大きさになっています」

画像を見せながら医者はそう言ったが、わたしは野球ボールの大きさを知らない。

昨日たまたま社食で先輩たちと昼食を摂りながら、「中学の時テニス部だったんですよ」「え~中島さん運動してたの? 全然そう見えない」「よく言われます」と話したことを思い出したが、テニスボールの大きさも、はっきりとは思い出せなかった。

「普通はどれくらいの大きさなんですか」

「親指の先くらいですね」

生まれた時から体の中に卵巣を持っていたのに、そして毎月そこから卵をひとつずつ排出していたのに、卵巣がそんなに小さな臓器だなんて知らなかった。

とりあえず、親指の先とテニスボールとの大きさの差が、決して小さなものではないということだけは分かった。

 

その後の説明は、2ヶ月ほど前に大腸にできものが見つかった時に聞かされたのと大体同じだった。今の時点ではこれが何かは分からない。最悪の場合、悪性腫瘍という可能性もある。またそれか、と思った。

その後、採血をした。担当した若い女の看護師が、二度失敗した。

ぼんやりしたまま差し伸ばした左腕に立て続けに走った痛みに耐え切れず、思わず「別のもっと上手な方に代わってください」と言った。看護師は申し訳ありませんと言って小走りで処置室の奥へ消えた。

すぐに後悔した。なぜ「別のもっと上手な方」なんて言ったんだろう。「別の方」で十分じゃないか、と思った。

自己嫌悪に陥っていると、部屋の奥から看護師が別の看護師と話す声が聞こえてきた。

「針は入るんですけど、血が出てこないんです」

そんなことあるのかよ、「何もしてないのに壊れたんです」みたいなこと言ってんじゃねえよ、と思った。感情の動きがせわしなかった。動揺していた。

代わりに出てきた年配の看護師が、申し訳ありませんでしたと言いながら反対の腕に針を刺したが、やはり血は出てこなかった。ポンプのような器具を使って、無理やり吸い出すようにして、何とか規定の量が採れた。

「普段採血の時、血が出てこないことはありますか?」と訊かれたが、こっちが訊きたかった。今まで一度もないです、と答えると、「今日ご体調が悪かったりします?」と訊かれた。さっき左の卵巣がテニスボールくらいの大きさになっていると言われたから今採血することになったんですよ、それはご体調が悪いに含まれるんですか? と言いたかったが、口を開く気になれず黙って首を振った。

待合室に戻ると、席は順番待ちの患者で埋まっていた。やっと見つけた小さな椅子に腰かけると、タンクトップにデニムのショートパンツを履いた若い女が、上等そうなスーツを着た中年男と共に、受付で何やら揉めているのが目に入った。

女は甘ったるい声で腹が痛い、今すぐに診てほしい、一時間も待てない、とごねていた。男は、別の病院行く? 一旦救急車呼んでみる? とか何とか言い、なるべく騒ぎを大きくしないようにしていたが、女は大きな声で、やだぁ、痛いもん、我慢できないもん、と答えていた。今すぐ腹を切って死ねば痛い思いも我慢も永久にせずに済みますよ、と言いたいのを必死でこらえた。

 

会計を済ませ病院を出たところで、彼氏に電話をかけた。

彼は毎日深夜まで働いているので、休日の午前中には起きていない。分かっていたが指が電話を操作していた。

電話がつながったので「もしもし」と言うと、彼は「もしもし……もしもし……もしもし?」となぜか三回繰り返した。寝ぼけているらしかった。

ひと通り事情を説明するとさすがに目が覚めたらしかったが、さほど驚いた様子はなかった。彼は何が起こっても、さほど驚かない。

彼は祖父を癌で亡くしていて、母親も長い闘病生活を経て癌を完治させていた。

彼は祖父と母親の病気が判明した時の話をまじえながらわたしをなだめ、「大丈夫だよ」と何度も言った。「最悪の場合でもきっと何とかなるよ。今あれこれ想像をしても無駄だから、楽しいことを考えて。難しいと思うけど考えて。昨日のライヴはどうだったの?」と言った。

「最高だった。ceroと、ニューヨークで活躍してるトランぺッターの人が一緒にやって、ステージの後ろに東京の夜景が広がってて、はしもっちゃんのコーラスがいつもよりもっともっときれいで、あと、『ターミナル』っていう曲があるんだけど全然違う曲みたいなアレンジで、すごくて、トランペットもすごくて、高城さんの歌声もヒップホップみたいで落語みたいで、とにかく全部良かった。でもあらぴーにすごい近い席をとったつもりでわくわくしながら行ったのに、近すぎて頭と背中しか見えなかった」

わたしがそうまくしたてるのを聞いて彼がけらけらと笑ったので、わたしもつられて笑ってしまった。

その後は、冗談を言い合いながらお互い簡単に近況報告をした。駅に着いたので「またね」と言って電話を切った。

 

そのまま地下鉄に乗りスーパーに寄って、あらかじめ切られてパックになっているサラダのセットとノンオイルのドレッシングと無脂肪の牛乳と脂質の少ないパンを買った。

それらを提げて帰り、いつも台所の換気扇の下に置いている煙草を、箱ごと捨てた。

 

わたしの祖父は一日に何箱も煙草を吸い、何リットルも酒を飲み、好きなものだけを食べて暮らしていたが、大病を患うことなく80年以上生き、老衰で亡くなった。

こんなことをしても大した意味はないと思った。

どんなに健康に気を配っていても病気になる人はなるし、どんなに不摂生をしていても病気にならない人はならない。ばかみたいだ、と思った。でも何かせずにはいられなかった。

 

買ってきたものを冷蔵庫にしまった後、服を脱いで横になり、自分の腹を触った。腫れは分からなかった。この皮の下で卵巣がめちゃくちゃに腫れているなんて、嘘のようだった。

彼氏の言った通り、楽しいことを思い出そうと思った。そうしたら、『アンパンマンたいそう』の歌詞が頭に浮かんだ。

「もし自信をなくして くじけそうになったら いいことだけいいことだけ 思い出せ」

あれは真理だったのだな、と思った。今、いいことだけを思い出そうとしている。

でも、溢れそうなほどたくさんあるはずのそれは、なかなかうまく出てきてくれない。

わたしは看護師の「針は入るんですけど、血が出てこないんです」という言葉を思い出し、そうだよな、そういうこともあるよな、と思った。ごめんね、と声に出して謝ると、涙が出た。何の涙なのかはよく分からなかった。

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20150917

午前中、同期の女の子と一緒に研修を受けて、流れでそのまま一緒に昼食を摂ることになった。

わたしたちはざっくり言えば同期ということになるが、入社の時期も少しずれているし部署も違うので、それまで互いの顔と名前も一致していない状態だった。

外に出ますか? 社食にしますか? と訊くと、彼女は「わたしお弁当なんで、社食で一緒に食べましょう」と答えた。

 

彼女が冷蔵庫へ弁当を取りに行っている間に、急いで社食で注文を済ませ、自分の分のほうじ茶と水を注いだ。ほうじ茶は食事の最中に飲む用で、水は食後の薬を飲む用だ。

するとちょうどそこに彼女が現れ、二つのコップを見て「わー、ありがとうございます!」と言ってわたしの手からさっとそれらを取り、眺めのいい席へとすたすたと歩いて行った。別に薬なんて何で飲んだっていい。素直でいい子だ、と思った。

わたしはカジュアルだが洗練された、かたちの良い服に身を包んだ彼女の後姿を見た。

お尻が薄く、脚がすらりと長く、ただ肉が少ないというのでなく骨格から細いという感じで、平成生まれの都会育ちの子の体だ、と思った。

 

向かい合って座り、いつの間にか彼女のものになったほうじ茶のコップを見て、そっちほうじ茶だけど苦手だったりしませんか? と訊くと、彼女は「わたし何でも大丈夫なんで!」と元気よく答えた。

彼女のお弁当はおにぎり二つに大根を煮染めたもの、野菜炒め、トマト、からあげという、豪華ではないがきちんとしたものだった。

実家暮らしだろうな、と思った。そしてきっと、周りの人たちに大事にされて育ったんだろう。素直で邪気がなく、一緒にいるだけで自然と好意が胸に湧き上がってくるタイプの子だった。

 

立ち入ったことだとは思いつつ、「お弁当、毎日自分で作ってるんですか? 」と訊いてみると、彼女からは、高校の頃からずっと自分で作っている、今は一人暮らしだが弁当作りには慣れてしまっているのでそこまで苦ではない、というような意外な返答があった。

 

新卒で入った会社の同期の女の子たちは、全員実家から会社に通っていて、彼女たちのお弁当は、全て彼女たちの母親によってつくられたものだった。わたしは一人暮らしだったので栄養バランスも彩りも何もない、適当な弁当を自分で作っていた。彼女たちの弁当は、どれも宝石箱のようにきらめいて見えた。

 

ボロボロになって帰宅して、休む間もなく弁当箱を洗い、夕食を作り、食べ、また皿を洗い、翌日の弁当の準備をしなくてもよいということが、とてもうらやましかった。でもどこかで「いい歳して親に弁当をつくってもらうなんて」と彼女たちを見下してもいた。

「これ入れないでって言ったのに」と当然のようにおかずに文句を言ったり、「疲れてるのに風呂掃除しろって言われて昨日お母さんとけんかした」と愚痴をこぼしたり、「家にお金? そんなの入れてないよ~」と笑い合ったりする彼女たちと、わたしは次第に距離をとるようになった。

 

彼女たちは何も悪くなかった。そして東京を離れ地方で働くことを選んだのも、一人暮らしをすると決めたのも、他でもないわたし自身だった。

でも、経済観念も仕事や生活に対する切迫度もまるで違う彼女たちを、そういう生き方もあるんだとか、どう生きたって自由なんだとか、苦労の種類の違いがあるだけで一人暮らしと実家暮らしに優劣はないんだとか、そういう風に考える余裕は当時のわたしにはなかった。わたしは昼食を一人で摂るようになり、同期の誰にも言わずに会社を辞めた。

退社後、心配しているのか噂話のネタにしようとしているのか分からないメールが何通か届いたが、全部無視して受信拒否設定をした。そしてわたしは一人で東京に戻った。

 

 

彼女に訊かれたので、うどんをすすりながら、これまでの職歴をかいつまんで話した。すると彼女はぱっと表情を輝かせて、「わたしとほぼおんなじです!」と言った。

最初の会社はホワイトの大企業だったが仕事の内容がキツくパワハラが横行していて続けられなかった、次の会社は中小企業で仕事は楽だが体質がいい加減でややブラックだったと、つらいエピソードを笑いに変えながら、彼女は大きな身振り手振りつきであけすけに自分の経歴を話してくれた。

苦労をしてきた子なのだと思った。そして、苦労をしていない人なんていない、という当然のことを思い出し、自分の安易な先入観を、心底恥ずかしく思った。

 

「本当だ、似てますね」

「ね、何かうれしい」

彼女はわたしの分だったはずのほうじ茶をぐいっと飲み干して笑った。

 

思い切って年齢を訊ねると、たった2つしか違わなかった。

驚いて、絶対20代前半だと思ったよ、と言うと、彼女は恥ずかしそうに、童顔だからいつも若く見られるんです、と答えた。

「わたしは老け顔だから、いつも実年齢より上に見られるよ」と言うと、老け顔だからじゃなくて落ち着いてるからですよ、と言う。

「いや、落ち着いてるんじゃなくて若者らしい元気がないだけだよ」

そう言うと、彼女は何がツボに入ったのか大笑いして、何言ってるんですか、元気ありますよ! と言った。何てかわいい子だろうと思った。

 

翌日も彼女と一緒に昼食を摂った。話は盛り上がり、気付くと昼休みが終わる直前で、二人で駆け足でオフィスに戻った。

 

わたしは長いこと、素直な人や邪気のない人を、羨み妬み、憎んできた。

もし自分がこんなにもひねくれていなかったら、もっと自分の感情に素直になれたら、もしかしたら生きるのはもっと楽だったかもしれない。そう考えては、そういう人たちを、ずるいと思い込んできた。

素直だとか邪気がないとかそういう性質は、ほとんど先天的なもので、努力で得られる種類のものではなく、自分には到底手に入らないと思ってきた。今もそう思う。

でも、手に入らないものを欲しがって苦しんで自分を傷つけるような気力というか情熱は、いつからかなくなってしまった。それがいいことなのか悪いことなのかは分からない。何かから逃げているのかもしれないし、楽に何かを諦めただけかもしれない。

今はただ、そういう人と接すると、「いいな」「素敵だな」と思う。

わたしにはできない率直だけど嫌味のない言い回しを耳にすると、感動したりもする。いつかどこかで使ってみたいと、胸の奥の方の引き出しにそっとしまったりする。多分使う機会はないけれど、もらったこと自体のうれしさはずっと続く贈り物のように、大切にしまう。

同期の彼女は、これからもそういう言葉をたくさん聞かせてくれるかもしれないし、もしかしたら耳を塞いで早足で離れたくなるようなことを言い出すかもしれない。

でもそれはどっちでもいい。彼女の自由だ。人は自分の心を自由にさせている時が、たとえ醜くとも、いちばん魅力的だとわたしは思う。

 

とりあえず今は、彼女がもしもわたしにそういう言葉を吐くようになっても、簡単に失望したりしたくないと思っている。一旦は耳を傾けて、彼女の心を知ろうとする勇気を持ってみたいと思う。それが今のわたしの素直な気持ちだ。

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20150915

先日、出会って間もない人に「中島さんて、人間のこと信用してないでしょう。見てると分かるよ」と言われた。

彼の言う「人間」の定義も「信用」の意味することの範囲もよく分からなかったので、「どうでしょうね、少し考えます」と答えたら、相手は面食らった様子で、いやそんな真面目に考えなくてもいいんだけど、と言い、何となくそこで会話が途切れてしまった。
 
わたしたちは電車に乗っていた。
大きな台風がくるという報せのせいか、単に時間帯のせいか、電車は奇妙なほど空いていて、わたしたちの正面のシートには誰も座っていなかった。
次第に大きくなる雨粒に叩かれている車窓越しに、都心を離れるにつれ低くなっていく建物のかたちを目で追いながら、わたしは自分が人間を信用していないかどうかを考えた。
 
わたしには心から信頼している人が、多くはないが確かにいる。
 
でも、たとえばわたしは不特定多数の人が触れた物に触るのがあまり好きでない。一応触れるが、そういうものに触った後は除菌シートで手を拭く。
それは潔癖だからとかきれい好きだからというよりは、人はみな自分と同じ衛生観念を持っているわけではない、と思っているからだ。
 
人にはそれぞれの事情があり、毎日風呂に入ることができない人や、トイレの後必ず手を洗うような習慣を身につけることができなかった人がいる。仕事や何かの都合でどうしても体が汚れたまま公共物に触れざるを得ない人もいる。そしてそれがその人のせいかというと、それはわたしに分かることではない。
毎日すれ違うだけの他人のことを、わたしは知ることができない。もちろん「すいません、あなたトイレの後ちゃんと手洗ってますか?」と訊くこともできない。
 
だからわたしはつり革や手すりやトイレや、そういう多くの物を、「これを清潔でない状態で触った人もいる」という前提で使う。
 
衛生的なことに限らず、わたしは世の中にはいろんな人がいると考えた上で、自分がなるべく苦しい状態にならないよう、自分なりに備えながら生活している。
人と約束事をする時も、それが果たされないことを想定しておく。褒め言葉や優しい言葉も、そのまま飲み込んで喜ぶ前に、一応相手の本音を精査してみる。
 
そういうわたしの性質は、彼の言う「人間を信用していない」ということに当てはまるのだろうか。しばらく考えて、ものすごく雑に言えばそういうことになるのかもしれない、と思った。
 
電車が駅に停まった時、「さっきの話ですけど、多分そうだと思います。でも人間が嫌いとかそういうことはないです」と答えた。相手はふうん、と言った。わたしの返答の意味について考えているようにも見えたし、もうその話題から興味を失っているようにも見えた。
 
信用ということはよく分からないが、わたしは人間を愛していると思う。愛していて、その多様性をある程度受け入れているからこそ、その中で自分が何とか生きていく術を探している。そういう姿勢を「人間を信用していない」と受け取る人がいることも、理解している。
 
できているかどうかは別として、わたしは他人は自分と同じではないということを、できる限り尊重したいと思っている。やっぱりそれは「信用していない」とは別のことなんじゃないか、むしろかなり遠いことなんじゃないか、と思ったが、もうそれを口にはしなかった。
 
今日買ったtofubeatsの最新アルバム『POSTIVE』に収められた楽曲たちは、そのタイトルの通り、みな明るく前向きな色合いと響きを持っていた。自然と明るい気持ちがやってきて、体が動き、胸が踊った。
 
しかし、どの曲にも、一般的に「ポジティブ」とされるものについてまわりがちな、軽さや薄さは全くなかった。むしろ、その音と言葉の底には「ポジティブ」とは反対の何かがあった。人間や物事に対する諦めと寛容さがないまぜになった、重たい碇がついているようだった。
 
それが最も色濃く出ているのが、中納良恵をボーカルに迎えた『別の人間』だと思う。
 
「二人は たがいちがい 別の人生さ でもなぜか 通じ合うのなら  二人はわかりあえない 別の人間さ 一生かけてそれを知るのなら」
 
基本的に他人同士は分かり合うことはできないというかなしい限界を当然のように前提としながら、でも時に心が通じ合うこともなくはない、と、愛情や人間関係というものの不確かさを前向きに肯定しようとする歌だと思った。
 
わたしは真のポジティブというものがあるとしたら、これがそうなんじゃないか、と思った。
 
こんなことはわたしの個人的な受け取り方に過ぎないし、tofubeatsの作品と自分とを比べるのはおこがましいが、わたしの他人に対する態度も、「限界を知った上でなるべく肯定していきたい」という点では同じだ。そう思った瞬間、今まで自分とは縁遠いと思っていたポジティブの芽のようなものを、自分の内側に見た気がした。
 
ここ数日考え続けていたことが、あるべき場所にすとんと収まり、目の前が眩しくひらけるような音楽体験だった。
 
わたしはきっとこのアルバムをずっと聞き続けることになるだろう、と思った。未来のことは分からないが、とりあえず今はそう期待している。
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20150908

新しい職場での仕事が楽しい。

毎日、新しいことをものすごい勢いで教えられている。でも全くつらくない。

頭がぐるぐる回転して、キーボードを打つ手が高速で動いて、言葉がどんどん口から溢れる。アドレナリンが出ているのが分かる。

こういう風に自分の頭が音を立てて動いているのを感じるのは、受験勉強をしていた時以来かもしれない。

 

一つのことを覚えると、二つ目のことがよく分かる。三つ目を覚えると、一つ目と二つ目と三つ目がどのような線で結ばれているのかが分かる。

線の結ばれ方が分かると、四つ目以降のことは、まるではじめから知っていたことのようにするりと頭に入ってくる。頭の中で知識と情報が樹木のようなかたちを描く。

枝が伸び、どんどん葉が生い茂っていくのを、脳が悦んでいる。

もっと教えてほしい、もっと知りたいと思う。

自分でも信じられないけど、夜眠る前いつも、「早く会社に行きたい」と思う。

 

でも、楽しいのはまだ研修中だからだ、ということも、重々分かっている。

何かあっても教育係の先輩や上司のサポートがあるので、責任感やプレッシャーもさほど抱かずに済んでいる、だから楽しさだけを呑気に享受していられるに過ぎない。

来月には先輩は休職に入り、わたしは独り立ちをしなければならない。

そうしたらきっと、楽しいなんて言っていられなくなるだろう。

 

わたしは楽しいと感じるといつも、「この楽しさは今だけのものだ」と思う。

「たまたま今は楽しいと感じられているだけだ」「一時的に何かに恵まれてそう思えているだけだ」と思う。

今だけのものだから思う存分楽しんでやれ、とは全く思えない。楽しさが終わる瞬間がいつ来るかいつ来るかと、身構え続けてしまう。

わたしにとって楽しさは、そういう怖さをいつも後ろに引き連れているものだ。

 

今日明日と、彼氏が出張で東京に来ている。

正直なところ、まだ仕事に慣れていない今は、平日に予定を入れたくない。

そういうことを彼に伝えたわけではないけど、「一応黙ってるのもあれだから連絡したけど、また今度ゆっくりできる時に会うのでいいよね」というあっさりとしたメールがきた。わざわざ言葉にしなくても微妙な気分を正確に察してくれる人がいる、頻繁に会えなくてもそういう人が世の中に存在している、ということを、とてもありがたいと思った。

 

今、彼に対して不満に思うことは何ひとつない。一緒にいて嫌な思いをしたことも、一度ない。何をしていても楽しい。

でもそれも、今だけのことだと思う。付き合い始めて日が浅く、過ごした時間がまだ短いから、単にいいところしか見えていないだけだ、と思う。浮かれていて細かいところに目がいっていないだけのことだ、と思う。

楽しさと同じく、愛情もいつも終わりの怖さを引き連れている。

あなたの何もかもを愛している、なんて思えるのは、あと少しの間だけだろうと思う。

 

それでも仕事も彼のことも、できればずっと、楽しくて好きだと思い続けたい。

つらいから嫌い、欠点があるから嫌い、と簡単に断じてしまいたくない。

 

「楽しい」と「つらい」も、「好き」と「嫌い」も、完全に切り分けることはできない。自分の欲しいところだけを、都合よく手にすることなどできない。

仮にそんなことができたとしても、それはただの搾取だ。

つらいことを楽しいと思い込む必要はないし、嫌いなところは嫌いなままでも、多分いいのだと思う。全てを完全に肯定することは不可能だし、不必要なんだろうと、頭では何となく分かっている。

 

でも、いつも一緒にやってくるそれらを、怖がらずに受け止めて、仕事とも彼とも、途切れることのない関係を結び続ける為に、具体的にどうしたらいいのかわたしはまだ分からない。仕事も人間関係も、長く続けたことがないからだ。

 

仕事帰りに表参道で用事を済ませて、駅に向かって歩きながら、ここから今彼がいるところまでどれくらいかかるのだろう、どっちの方角に彼の会社があるのだろう、と考えた。全く分からなかった。

でも同じ東京にいると思うと、単純にうれしかった。今、きっと彼も傘をさしている。気温は低いけれど湿度が高くて嫌な気候だ、と感じている。薄もやにてっぺんを隠されたビル群を、もや越しにぼんやりと光る赤い光を、おそらくどこかで見ている。

 

わたしは踵を返して長い横断歩道を渡り、ケンタッキーに寄った。

そしてオリジナルチキンを2ピース買い、それを提げて地下鉄に乗って家へ帰った。

手を洗い服を着替え、ぬるくなったそれを、キッチンの床で煙草を吸いながら食べた。

 

今日はわたしたちの初めての記念日だった。

油と煙のにおいに包まれながら、一人で祝う記念日もいいものだ、と思った。

満腹になったら眠気がやってきた。満腹で眠気を感じている時の幸福感は、純度が高くて、嫌なものを連れていない。身体の満足が、頭に余計なことを考えさせなくなるからだろう。

キッチンの床に横になり、目を閉じて換気扇のうなる音を聞きながら、怖いことは怖いことが起こった時に考えてもいいのかもしれないと、特に根拠もなく思った。

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20150829-30

beipanaさんのデビュー7inch『7th voyage』のリリースパーティーが、ceroの高城さんが阿佐ヶ谷でやっているバー、Rojiで行われたので遊びに行った。

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とても気持ちの良い夜だった。

イベントは大盛況で店内は終始混み合っていたが、皆自然に互いを気遣い合っていて、あちこちで楽しげな会話が行き交い、笑い声が絶えなかった。良い音楽と、祝福の気持ちで繋がれ合うと、人はこんなにも良い時間と空間を生み出すことができるのか、と思い、泣きそうになった。

 

わたしもたくさんの人と話をした。久しぶりにお会いする方も、初めてお会いする方もいたが、不思議とあまり緊張しなかった。むしろとても楽しかった。

帰りの電車の中、「いろんな人とたくさん話ができて楽しかったな」と思っている自分に気付き、はっとした。わたしは物心ついてからつい最近まで、自分は人と話をするのが苦手だし嫌いだ、と思ってきたからだった。

 

小さい頃、わたしはみんなが遊んでいるのをその輪の外から眺めるのが好きだったのだが、そうしていると決まって先生に「とう子ちゃんも『入れて』って言おうね」とか「みんなと一緒に遊びなさい」というようなことを言われた。しかしわたしは輪の外にいたいと主張し、先生の言葉を拒んだ。

わたしはみんなと楽しく遊ぶより、みんなが楽しく遊んでいるところを見るのが好きだったのだ。どうしてみんなが楽しい気分になっているのかを想像すると、それだけで楽しい気分になることができた。

癇癪持ちのあの子が今日は機嫌よく笑っているのは、朝ご飯で好きなものが出たからかもしれない、ゆうべ良い夢を見たせいかもしれない、お母さんにいつもより優しい「いってらっしゃい」をもらったせいかもしれない、と考えると、胸が幸福で満たされた。それで十分満足していた。

大人たちは次第にわたしの気質を理解し、放任するようになっていった。あるいはあれはただの諦めだったのかもしれないが、いずれにせよわたしは、人の輪の当事者でなく傍観者でありたいという思いを、ある程度容認されながら育つことができた。

 

それが容認されなくなったのは社会に出てからだった。

好きでもない人間のつまらない話に笑い、行きたくもない飲み会に行き、下世話な噂話や悪口の言い合いに参加し、ころころ変わる上司の機嫌に合わせておべっかを使うことを強いられた。わたしが新卒で入社したのは、そうしなければ仕事に直接的な支障が出て不利益を被るような、閉鎖的で古い体質の組織だった。

はじめこそ表面上うまく取り繕うことができていたが、次第に綻びが出始め、わたしは上司に嫌われ、社内で完全に浮き、仕事もうまく運ばなくなった。

仕事は遊びとは違う、社内で良好な人間関係を築くことは会社員としての義務だ、もう輪の外にいたいなんていうことは許されない、ということを頭では理解していたが、心と体はそれを激しく拒絶していた。

 

何とかその会社を辞めた後、色々な仕事をしたりしなかったりしたが、転職をする度に、組織のしがらみから距離をとりやすい非正規雇用で、かつ人との関わりがなるべく少なくて済む職場を選ぼうとしてきた。

雇用形態のおかげで社内の人間関係の煩わしさからはある程度逃れることができたが、最初の仕事が人と話し、難しい交渉や説得をする仕事だったせいで、どこへ行っても人と深く話し合う仕事を振られる羽目になった。

先日まで勤めていた会社も、単純なデスクワークだと聞いて入社したが、次第に営業や顧客との難しい交渉や新人教育や研修講師など、人と真正面から向き合う仕事ばかり担当させられるようになり、心労で入社してからの数年で15キロも痩せた。

 

そんな自分が諸々の理由から今年の六月に転職することを決め、次はどういう仕事をしようかと考えた時、真っ先に「人と関わる仕事がしたい」と思ったのには、心底驚いた。が、不思議とどこか安堵している自分もいた。

 

ある時期から、自分の中にある思いに気付いてはいたが、そんなはずはないとそれを否定し続けていた。しかしとうとう、それを認める日が来たのだった。

自分は人が好きで、人と話をするのが好きで、人と一緒に何かをすることが好きだ。

生まれ育ちも考え方も、何もかも違う他人と真っ向から誠実に言葉を交わし、分かり合えず苦労し傷つき、それでも諦めずにいるうちに、時々ほんの一瞬だけ訪れる、かすかに心が重なり合う瞬間が、自分の心を最も激しく震わせるのだということに、そしてその奇跡のような震えこそを自分が求めているということに、わたしは気付いてしまった。

働くことが大嫌いなわたしを働かせ続けてきた最も強い動機は実のところ金ではなく、あの、またたいてすぐに消える光のように儚くも美しい、「他人と同じ気持ちを共有できた」「他人の気持ちを理解することができた」という魔法のような瞬間だったのだ。

 

小さい頃、みんなが楽しく遊んでいるところを見るのが好きだったのは、みんながどうして楽しい気持ちになれるのかを知りたかったからだった。その感情の手触りや温度がどんなものなのかを知りたかった。でも直接訊くのは苦手だったので、それよりも楽な想像を選択していただけだった。

社会に出て、その選択の自由をなくし、苦痛に耐えたり逃げたり乗り越えたりしているうちに、ようやくわたしはずっと自分が他人と分かり合いたい、他人の抱いている気持ちを知りたいと思い続けてきたことを知り、それが一人でいるのが好きだという気質と矛盾しないということを受け入れられるようになった。

 

働くことにはつらさが伴う。どんなに仕事が好きな人でも例外ではない。つらさの程度は比較できず、種類の違いがあるだけだ。皆等しく苦しんでいて、わたしもその一人だ。

皆が苦しみを抱えながら働いているのなら、できる限りそのつらさを軽くしたり、つらさの原因を解消したりする為に働きたいと思った。そしてそうできる仕組みをつくったり、既にあるならばそれが適切に運用されるようにする仕事に就こうと思った。

そして運よく、わたしは明日からそうした仕事を始めることとなる。

 

beipanaさんのリリースパーティーで、「転職おめでとうございます」とたくさんの方に祝福のお言葉をいただいた。とてもうれしかった。

わたしは新しい場でもまた必ず苦しむし、仕事行きたくねえとかだりいとかつぶやくし、きっと何キロか痩せるだろう。でも今、そのことは全く怖くない。

他人と誠実に言葉を交わし、分かり合うことを諦めない限り、本当にごくたまにだが幸福だけが完全に心を満たす、奇跡のような瞬間が訪れることと、その一瞬さえあれば自分は生き続けることができることを、わたしはもう知ったからだ。

あの夜、パーティーの場ではそんな瞬間が山ほど訪れた。わたしの発する言葉は決して面白くも流麗でもなかったが、他人と心の通じ合った瞬間のあの光は、何度もわたしの胸の中でまたたいた。体が熱くなった。生きていてよかったと思った。

 

翌日、彼氏と一緒に近所の霊園を散歩した。以前親友と散歩したのと同じ場所だ。

サトウハチロー氏の墓に「ふたりで見ると、すべてのものは美しく見える」という言葉が彫られていた。わたしが同じことを言おうとしたらきっと「他人と見ると美しく見えるものがあることも、なくはない」となるだろうと思った。

 

霊園を出る時彼氏に、以前親友に訊いたのと同じ「何でも好きな言葉をお墓に彫れるとしたら、何て彫る?」という質問をした。彼は迷う様子もなく「自由」と即答した。

それはわたしが親友と霊園を訪れた日からずっと考え続け、辿り着いた言葉と全く同じだった。大丈夫だ、生きていける、と思った。

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20150803

元々胃が悪いので、時間がある時に軽く検査にでも行っておこう、と気まぐれに赴いた消化器科で腸にできものが見つかって、今月の終わりに手術をすることになった。

今日、その手術の前の検査をしに、再度病院へ行った。

 

正直、めちゃくちゃ怖かった。

わたしは自分が生にそれほど強い執着を持っている方だと思っていなかったし、死ぬなら死ぬで別にいいや、という気分で生きているつもりだったが、ただのポリープかもしれないし悪性腫瘍かもしれない、それはとってみないと分からない、と面と向かって言われ、できものの現在の状態や術式や手術前後の注意点なんかを細かく聞いているうちに、自分がかなり動揺していることに気が付いた。

先日受診した際は「林家木久扇に似てるなぁ」としか思わなかった医者の細かい言動がいちいち気に障り、壁に飾られた気取った油絵にまで苛立ち、それまでまるで抱いていなかった医者への不信感が突然胸に湧き上がって、口を聞きたくないほど嫌な気分になってしまった。

今思えば気が動転していたとしか思えないが、わたしは説明を聞き終え、「別にわたしは死んでもいいので手術はしたくないです」と言った。

医者は一瞬目を丸くしたが、すぐに表情を戻して言った。

「手術の前は、いろんなケースを想定して、様々な可能性についてお伝えしなければならないんです。驚かれたと思いますが、あくまで可能性の話です。正直やってみないと、これが何なのかも、術後どれくらい体に影響が出るかも分かりません。でも最善を尽くしますから、とりあえず落ち着いてください」

その言葉は何の慰めにもならなかった。依然として恐怖が心の全てを占めていた。

みんなにこういうことを言っているに決まっている、信じられるか、と思った。わたしは大人気なくも医者につんけんした態度をとり、足早に病院を去った。

 

帰り道、手にしていた処方箋を取り落して、それを拾う為にしゃがみこんだら、そのまま立てなくなった。

手術まじだるい、せっかくの夏休みの計画が台無しだ、死ぬの怖い、新しい会社でちゃんと働けないかも、せめて会えなくなった友人に一目会いたい、海が見たい、星野源が好きだ、昨日のマルチネのイベント楽しかった、お腹が空いた。

頭の中をいろんな感情が脈絡なく巡って、混ざり合って、涙がこぼれた。

 

帰りの電車の中で友人に「手術したくない」とメールをした。

やけくそなひどい文章だったが、彼は丁寧に優しい言葉を返してくれた。

しばらくやりとりをしていると、まさにメールをしているその最中、彼にも嫌な出来事が起こったという報せがあった。

それを見たら、ついさっきまで頭のてっぺんからつま先まで、全身を不安で満たしていた手術のことが、頭からぱーんと消え、自分が彼に何を言えるのかしか考えたくなくなった。

 

友人とは19歳からの付き合いで、何年か前に、わたしの軽率な言動が原因で関係が崩れかけたことがあったが、彼の寛容さによって、何とか今日まで良い関係を保ってくることができた。そしてこの9年の間、わたしは彼に何度も救われてきた。

どんなに相手を大切に思っていても、傷つけたり傷つけられたりすることはある。

わたしはそういう状況に直面する度に、常に関係を断絶して逃げることを選んできて、壊れかけた関係を修復したことも、そうしようと努力したことも、それまで一度もなかった。

 

わたしは持てる限りの拙い言葉を彼に送った。

あなたは何も悪くないし一切間違ってない、仮にこの先何かを間違うことがあっても、少なくともわたしはあなたを大切にし続ける、だから安心してほしい、そういうことを伝えた。

さっき医者に「安心しろ」と言われて「できるかよ」と思っていたくせに、何て調子がいいんだろうと思った。

 

わたしの言葉が彼にどういう風に届いたかは彼にしか分からないけど、友情と尊敬と信頼を込めた心からの言葉は、どんなに下手くそでも絶対に何かを伝える、今すぐじゃないかもしれないし、わたしの想像するのと全く別のかたちかもしれないけど、わたしはそう信じている。そう祈っていると言ってもいい。

もしもそうでなかったら、この世で言葉を遣って他人と共に生きることって何なんだろうと思う。わたしは信じている人に信じられたい、大切な人とは支え合いたい、何でもしたい、力になりたい。そしていつでも臆面もなく、そういう思いをそう思った時に本人にそのまま伝えたい。

 

言葉にしなければ伝わらないことは思っているよりもずっと多く、そのことに気付いている人は思っているよりもずっと少ない。

「こんなことを言ったら恥ずかしいかな、痛いかな」なんていうつまらない自意識は18歳の時にドブに捨てた。どんなにダサくてもキモくても、言いたいことを言わないよりはマシだ。

 

友人に伝えたいことを伝え終えたら、手術への恐怖は不思議と消えていた。

医者の言葉を信じようと思った。げんきんな話だが、一緒に病気を治す為に努力し合おうと、自然に思えた。

別の友人知人から、優しい気遣いの言葉をもらったことも、大きな助けになった。

 

感謝と感激でまた泣きそうになっていると、上司から、先日生まれた子どもの写真と共に、出産祝いのお礼のメールが届いた。

会社を辞めるにあたっての複雑で面倒なやりとりの中で、上司から再三に渡り配慮に欠けた言動があり、以来、まるで友人のように円満だった関係は急激に悪化し、わたしは彼に全く好意を持てなくなっていた。

 

メールには、体調への気遣いと、新たな環境へと去っていくわたしへの励ましと感謝と、息子への愛が綴られていた。決して流麗な文章ではなかったが、そこに嘘はなかった。

どんなに相手を大切に思っていても、傷つけたり傷つけられたりすることはある。

ついさっき自分で思い出したことを、また思い出した。

そもそもそんな人存在するのか分からないけど、わたしも上司も言葉を扱うプロではない。そしておそらくそれぞれに、全く別の欠陥を抱えている。それでもこの数年、共通の趣味をかすがいとして、きちんと真面目に付き合ってきた。

 

わたしはまた、面倒な揉め事を前に貴重な人間関係を投げ捨て、何もかもなかったことにしてどこかへ逃げようとしていたことに気が付いた。上司はややデリカシーに欠けていて、私は神経質すぎる。ただそれだけのことを、大げさに捉え被害妄想を膨らせていたと気付いた。それは不誠実な臆病者のすることだ。そんな風には生きたくない、と思った。

 

わたしは、少ない語彙から慎重に言葉を選び、上司への謝罪と感謝と、子どもの健やかな成長を祈るメールを返した。上司からは、すぐに呑気で朗らかな返信があった。

ちょっと言葉の扱いが下手で配慮に欠けるのがこの人の欠点で、大らかで心が優しいのが美点で、その二つは同じものでできている。わたしもきっと同じだ。

 

そういうことを認め、赦し、受け入れることができるようにならない限り、わたしは死ぬまで孤独だろう。

それはわたしの望むところではない。嫌いなやつには嫌われても一向に構わないが、好きな人と分かり合う為の努力を怠けたくはない。手を尽くした果てにやはり孤独や不安がぽっかりと口をあけて待っているとしても、わたしはその道を選ぶ。それがわたしにとって、美しいと思える生き方だからだ。

 

全然関係ないけど、RHYMESTERの新しいアルバムのタイトルは『Bitter,Sweet&Beautiful』で、最高にかっこいいと思った。わたしもBitterもSweetもある、Beautifulな人生を送りたい。『Bitter,Sweet&Beautiful』を聞きながら、死ぬのはそれからでも全然いいな、と思った。

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20150712

お台場に行くのはライヴの時くらいだが、行く度に「ここは人工的につくられた街だ」というようなことを思う。

多分、埋立地だから、というものすごく安直な理由からなのだと思うけど、そんなことを言ったら埋立地なんて他にもたくさんあるし、そもそも人の手によってつくられていない街など存在しない。普段何気なく「自然」と呼んでいる山や川だって、人の手によって長い年月をかけてかたちを変えられ続けて、今ある状態になっている。

 

そういうことは百も承知なのだけど、お台場に行くと、本当は海だったはずの場所に自分が立っていることが、不思議で仕方なくなる。もっと言うと、正しいことなのかよく分からなくなる。現実感が揺らいで、すれ違う家族や恋人たちが、幽霊みたいに見えることもある。

 

昨日、ceroのライヴの開演を待つ間、ファーストフード店の窓際の席で本を読みながらふと観覧車を見上げると、ちょうどひとつのゴンドラの中で、若い男が女の頭を自分の肩へと抱き寄せているところだった。

観覧車の中で肩を寄せ合う男女なんて映画の中でしか見たことがないのに、と思ったら、ますます目にうつるものがうそのように見えて、落ち着かない気分になった。

 

お台場が自分にとってそういう風に、現実とそうでないものの境を曖昧にする場所だからか、昨日のceroのライヴの間中、頭の中には境が曖昧な物事が、脈絡なく浮かび続けていた。

 

ある曲を聞いている時、わたしはふと「おじいちゃん元気かな」と思った。

そう思ってから自分でも驚いたけれど、祖父はとっくに亡くなっている。

でも、ものすごく自然に、「おじいちゃん元気かな」と思ったし、「元気かもしれないな」とまで思った。お台場という場が生と死の境を曖昧にしたのかもしれないし、ceroの音楽がそうさせたのかもしれない。あるいは、わたしが祖父の葬儀に出なかったせいかもしれない、とも思った。

 

訃報を受けた時、わたしには遠方である祖父のもとまで行く交通費を、どうしても捻出することができなかった。当時の恋人に相談すると、「本当に行きたいなら俺が貸すよ。でも行きたくないんでしょ?」と言われた。

その通りだった。祖父の遺体を見るのが怖くて仕方なかったのだ。あの大きな体がもう動かないという現実を、目の当たりにする勇気が出なかった。

 

小さい頃、わたしは「多い」と「大きい」の概念の違いをうまく理解できなかった。

ある年の夏休み、教師だった祖父は、わたしの国語の宿題を見ながらその間違いを指摘し、問題集の余白に小さな円をたくさん、そしてその隣に大きな円をひとつ描いた。

「これが『多い』、これが『大きい』」

ずっとごちゃごちゃになっていたことがすっきりと整理された気持ちよさと、「おおい」と「おおきい」が永久に切り分けられてしまった淋しさを、ceroの曲を聞きながら、それに胸打たれながら、なぜか思い出していた。

 

病床の祖父の為に大きなサイズのパジャマを買って送ってほしい、と母に頼まれて、池袋のサカゼンに行ったことも思い出した。祖父は昔の人にしては、体が大きい人だった。サカゼンで、わたしに初めて「大きい」を教えてくれたのが祖父だったことを思い出したかどうかは、覚えていない。

 

死んだ祖父がどこかで元気でいるといいな、と思い、それにつられるように、二ヶ月ほど前にもう会えなくなってしまった大切な友人のことを思い出し、元気でいるといいな、と思った。その友人は生きている。でももう二度と会えない。わたしはそのことが本当のことなのかどうか、まだよく理解できていない。

 

お台場に向かう途中、乗り換え駅で同じ職場の人とすれ違った。

向こうは気付かなかったので声を掛けることはしなかったが、職場からもその人の住む街からもわたしが住む街からも遠く離れた駅ですれ違うなんて、と驚いた。

 

大した縁もない人とだってそんなことが普通に起こるのに、お互いを大切に思っているわたしたちが死ぬまで会えないなんて、何かの間違いじゃないだろうかと思った。

最後の日の別れ際、「淋しい?」と訊ねたら、彼は「まだよく分からない」と答えた。わたしもまだよく分からないでいる。自分に、心から信頼し尊敬し心の全てを打ち明けられる他人がいたなんて、全部まぼろしだったんじゃないかとも思う。

 

そうやって色々なことを考えているうちに、本当にあったことと、本当にあったのだと自分が思い込んでいるだけかもしれないこととの違いが、どんどん分からなくなっていった。でもそれは、決して嫌な気分ではなかった。

時間も記憶も命も人とのつながりもみんな、本当は不確かで曖昧ではっきりとした境などない、ということの面白さとその果てしなさに、胸が躍っていた。

ceroの音楽を聞いている時以上に、そういうことを強く感じる瞬間はない。

これが適切な楽しみ方なのか分からないが、適切な楽しみ方などないということも分かっている。

 

帰り道、ゆりかもめの車窓から、きらきら光る、たくさんの大きい建物を見た。

乗り慣れていないせいか、ゆりかもめが自分をどこに運んでいるかよく分からなかった。乗り物に乗っている時の、そういう無防備な身体の状態が、ものすごく苦手でものすごく好きだ。

車窓には、痩せて以前より頬骨の高くなった自分の顔が映っていた。汗と涙で、化粧はすっかりはげていた。

 

祖父と友人に会って、ceroのライヴがどんなに素晴らしかったか、その音楽がわたしに何を考えさせたかを全部話したいと思った。いつかどこかで話せるんじゃないか、とも思った。

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20150613

先日久しぶりに、家に友人が遊びに来た。

わたしの家は冬、外よりも寒くなるので、とてもじゃないが人を呼べない。

暖かくなったら友人に来てほしい、と冬の間中思っていたことが、やっとかなったのだった。

 

駅前で彼女を迎えてから、まず近所の霊園を散歩した。

とにかく敷地が広く、墓と墓の間隔も狭くなく、ゆったりしていて一般的な墓地の暗さや怖さが全くないし、都心にもかかわらず木々が青く茂り、季節の花々が咲いていて、単純に景色が美しいので、たまに休日の昼間ひとりで散歩する、好きな場所だった。

 

二人とも草花の名前に詳しくないので、ツツジ以外の花の名前は全く分からなかったが、たくさんの花を見ては、きれいだね、かわいいね、と言い合った。

名前も分からない植物の、まるで誰かが計算したかのように幾何学的で規則的な様に、驚いたりもした。

「こうなろうと思ってないのにどうしてこうなるんだろう」

「すごいね」

 

その霊園は宗派を限定していないので、ありとあらゆる墓がある。

墓というより記念碑や銅像に近いものや、好きな詩や最期の言葉を刻んだものなんかもあって、こんな言い方をしていいのか分からないが、バラエティに富んでいて、見ていて飽きない。

 

そんな墓のうちのひとつに「みんなありがとう」とだけ刻まれたものがあった。

二人で声を揃えて、「うわーーー」と言ってしまった。

 

たとえば自分の死期を知り、墓に刻む言葉を自由に決めていいということになったら、何にする? と訊ね合ったが答えは出なかった。とりあえず、「みんなありがとう」は出てこないな、と言い合った。わたしは多分、もうちょっとふざけるか、かっこつけてしまうと思った。どんな人だったんだろう、いい人だったんだろうね、と友人は言ったし、わたしもそう思ったが、「これで生前めちゃくちゃ人とかぶん殴ってたらおもしろいな」と失礼極まりないことも考えてしまった。

 

墓を見て、その人が生きていた時のことを想像はできても、知ることはできない。死んだらそれで終わりで、誰とも知り合えないし、話せない。そう思いながら、花の写真を撮る友人の姿を見ていた。この人と、生きている間ずっと、良い関係でいたいと思った。

死んだら全部終わりだとしても、そう思った瞬間は永遠に消えない。わたしが死んでも人類が滅びても、時間はずっとそれを覚えているとわたしは思っている。というか、そう信じることにしている。

 

最近特にそんな風に思うようになったのは、少し前に別の友人と、もう二度と会えなくなってしまったからだった。彼は決して死んだわけでも電波の届かないどこかへ移住したわけでもないが、色々な事情があり、もう会うことも連絡をとることもできない。

でも、共に過ごした時間は永遠に消えずに残る、と根拠なく感じる瞬間が、今もたくさんある。たとえば大好きな友人と霊園を歩いている時、花を見た時、自分の死を想像した時。

 

わたしは小さい頃から、時間というものは、世界全体の歴史の記録書みたいな、永遠に途切れない巻物のようなかたちをしたものだと想像してきた。

その上には全ての人々の時間が刻まれていて、そのうちのある箇所に、わたしと彼の時間は重なり合ってちっぽけに、だが確かに記録されていて、それが消えたり失われることは、時間が流れることをやめない限りは、ありえないと思っている。

 

これまでの人生の中で、もう会うことができなくなってしまった大切な人たちがたくさんいるが、そのことを思って淋しくはなっても、つらくてつらくて死にたくなるようなことがないのは、この謎の「巻物理論」のおかげだろう。むなしい慰めに過ぎないかもしれないが、それで自分は救われてきたのだから、別に真実や科学のことはどうだっていい。

 

「わたしたちがこのまま独身のまま死んだら、多分親の墓に入るんだよね」

「自分で自分だけの墓を建てられるだけのお金を遺していて、事前にそういう希望を書いたきちんとした遺言状を作っていて、それを実行してくれる人がそばにいなかったら、そうなるよね。そしたら面白い言葉とか刻めないね」

霊園の帰り道、友人とそんな話をした。

一人で死ぬということは、自分の墓も選べないということか、と考えると悲しくなったが、「でもどうでもいいな、どうせ誰も墓参りとか来ねえし!」と笑い飛ばした。

 

その後、ずっと彼女を連れていきたかったパン屋へ寄り、わたしの家で宝塚のDVDと、彼女に見せたかったドキュメンタリー番組の録画を見た。楽しかった。彼女も楽しんでくれた。心から幸せだと思った。

 

今が良ければそれでいい、とわたしは心底思う。

先日、SAKEROCKのラストライヴを観た後も、同じことを思った。色々な変化を経ながらも長く続いてきた、素晴らしいバンドがなくなる。でもメンバーは今みんな、それぞれの場で活躍し、それぞれに楽しみ苦しみ、でもおそらくいい時間を過ごしていると思う。もちろん勝手な想像だが、そうでなければ出せない音が、あの日は確かに聞こえていた。

 

SAKEROCKはなくならない。これもわたしの「巻物理論」からくる個人的な実感だが、かたちが失われるということには、さほど大きな意味はない。それまで存在していた何かがあり、そこから途切れなく連続した現在があり、それが良い状態であるということに、意味がある。というかそれにしか意味はない。

 

SAKEROCKのラストアルバムのタイトルは『SAYONARA』で、最初はそんな悲しいこと言うなよと思ったけど、今はとてもいいタイトルだと思う。人生にはいくつものさよならがあるが、さよならは何も消去せず、断絶しない。

そんなことを思いながら、今『SAYONARA』を聞いている。わたしはこれから歯を磨き、掃除機をかけ、スーパーとクリーニング屋とTSUTAYAに行く。

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渋谷のハンズのエロい女

渋谷のハンズのエロい女

(フリーペーパー「好物」vol.43 スポーティ号掲載)

                                  

「渋谷のハンズの水筒売り場の担当の女がさ、めちゃくちゃエロいんだよ。今度見に行ってよ、いつもいるから」

 と、みっちゃんが言う、隣のテーブルの三十代半ばくらいのカップルの、男の方が顔をしかめている。客はわたしたちの他にはそのカップルだけだが、狭い店の中には、暇そうにした店員がなぜか四人も、それぞれの持ち場らしき場所に突っ立っていた。みっちゃんの声はよく響くので、わたしはいつも、そこにいる全員でみっちゃんの話を聞いているような気になる。

「興味ないとか言うなよお前、あれは本当、結構すごいよ。何だろ、エプロン? あのダサいエプロンのせいかな?」

 みっちゃんは高三の春と夏に甲子園に行き、その後短い間だがプロの選手としてもまぁまぁ活躍した。今は水筒やポットをつくる会社で営業をやっていて、本人は野球やってれば今頃、とよく言うが、地元の友人たちの中では多分いちばん稼いでいる。

「あぁ確かに、だったら全員エロくないとおかしいもんな。や、おっぱいは別にでかくないんだよね」

 みっちゃんはプロ野球選手だった頃に一度結婚して、二年ほどで離婚している。その翌年に元奥さんは息子を連れて歯科医と再婚したが、息子には今も毎月必ず会っているらしい。

「水筒のかたちは別にエロくないだろ! バカだなぁお前、そういうことじゃないだろ」

 息子は入ったばかりの小学校に、ほとんど通えていないらしい。たまに保健室には行くには行くが、たいてい昼には帰ってしまう。少し前に、保健の先生に遠回しに父親のサインをねだられてから、保健室にも行きたくなくなった。

「違う違う、ちょっとブスなほうが逆にエロいとかじゃなくて。何て言えばいいのかなぁ」

 息子は去年の夏、新しい父親に一度ぶたれたことがある。その拍子に玄関の靴箱の取っ手に頭をぶつけ、少しだが血を流し、以来、母親と新しい父親は一度もセックスしていない。なぜぶったのかぶたれたのか、二人とも、何も言わないままだ。

「ていうかおれ、明日もハンズ行くんだよね。どうしよう、何か変な気分になってきたわ」

 野球をやめたのは、本当はゴルフ場でカートを運転している時に事故を起こしてけがをしたからだ。右膝の傷は今も時折痛む。眠れないこともある。一生走ることはできない。

「いや、さすがにそこまではないよ、やっぱ仕事だしそれは。社長にすげえ恩もあるし」

 息子は眠れない夜に、よく行く広尾のレストランの厨房が爆発して真っ赤な炎がテーブルのすぐそこまで迫ってくるところや、マンションを出たそこの角から突然現れた頭の三つある巨大な黒い犬が、猛スピードで追ってくるところを想像する。走ることのできない父親は、毎回必ず死ぬ。

「まぁでもとにかく見に行けって。お前、渋谷通り道じゃん。あれは自分で見ないと分かんないよ。おれだってよく分かんないんだから」

 みっちゃんは空になったジョッキを高々と掲げ、すいませーん、とバカでかい声で叫ぶ。返事が聞こえた気がしたが、誰かが来る様子はなかった。隣のテーブルのカップルはいなくなっている。みっちゃんは太い腕を上げっぱなしにして、声のした方をまっすぐ見たまま、絶対見てこいよ、な、頼むよ、と念を押した。