20170303
結婚おめでとう、と言われる時期を過ぎ、結婚してみてどう? とか、楽しい? と訊かれる機会が増えてきた。
何回訊かれても、「いやぁ、分かんないなぁ」「どうかなぁ」みたいなことしか言えない。
もしこれが死ぬ直前だったら「いい人生だった……」とか言う可能性はなくもないけど、とりあえず今はどうもこうもなく進行する生活の只中にいるので、どの時点のどの何をどう答えたらよいか、困惑してしまう。そもそも生活って総括して語れるものでもないしなぁ、とも思う。
それでいつも、わたしは口の中でもごもご言う。相手が、ただ話のきっかけに結婚のことを持ち出しているのは、百も承知なのだが。
この間、高校の同級生の結婚式があった。
思い出話に花を咲かせていたらあっという間に終電で、足早にみんなと別れ、ひとり地下鉄のドアに寄りかかって自分の顔を見ていたら、ふっと脳みその「思い出スイッチ」みたいなものがオンになり、高校1年生から29歳の現在に至るまで好きになった人たちのことを順番に思い出すという、やや気持ち悪い行為にふけってしまった。
その結果、これまでわたしは、その人と分かり合えそうかどうかを基準に、恋人になりたいかどうかを考えてきたことが分かった。「分かり合える人」に出会おうとしてきた。
過去の恋人たちとは、必ず共通の趣味があった。完全に共通していなくても、お互いの好きなものを教え合ったり貸し借りしたりして楽しめた。「いいね」と言い合えた。思考回路や言葉の運用の仕方も、何となく自分と似通っていた。少なくとも、想像がついた。
わたしと夫はそうではない。
わたしは夫が何を考えているかが、全く分からない。他人の考えていることなど分からなくて当たり前なのだが、それを抜きにしても、本当に分からない。
先日外出中に、夫から「今スーパーにいるけど欲しいものある?」とメールがあった。「みかんゼリーが食べたいかな」と返信し、帰って冷蔵庫を開けて仰天した。大量のみかんゼリーが入っていた。13個。
「何で13個も買ったの?」と訊いた。安売りしていた、買いだめしておこうと思った、たくさん食べたいのかと思った……あたりの返答を想定していたのだが、夫は一言「あったから」と答えた。
「え? 全部買い占めたってこと?」
「買い占めたっていうか、たまたま13個あったんだよ」
「じゃあ30個陳列されてたら30個買ってたってこと?」
夫はしばらく首をひねっていた。
「いや、でも実際30個なかったからね。それは分かんないよね、本当にそこに30個ないとさ」
「はぁ」
「でもあの棚そんなに奥行きないよ」
意味が分からないと思いながらみかんゼリーを食べ続けていた数日後、夫はまたみかんゼリーを12個買った。理由を訊いても分からなさそうなので、もう何も言わなかった。
でもわたしは内心、分からない、というその状態を自分が面白がっているのに気付いていた。分からなさという余白が、何だか楽しいということに。
若い頃は、こういう人と付き合うとは思っていなかった。
自分と同じように文系の学部を卒業し、そこそこの企業で文句を言いつつも真面目に働いて、休日は小説や映画や音楽を楽しみ、ミッドセンチュリー的な家具で揃えたいけすかない部屋に住み、気の利いたバーを知っていて、ツーブロックで眼鏡で……みたいな、自分の想像できる範囲に生息している想像できる人とペアを組むのだと思っていた。
まさか会話すらまともに成立しない相手とひとつ屋根の下、おまけに特に苦痛もなく暮らすとは、思いもしなかった。
わたしは別に夫が変人だと言いたいわけではない。わたしにとって多少違和感があったというだけで、みかんゼリーを大量に買う人くらい、それこそ大量にいるだろう。
わたしが言いたいのは、自分が今「分からない」ということを、恐れなくなったのがうれしいということだ。うれしいというか、驚いている。分からなくても共に生活できる、ということに。疑問や違和感といったノイズが、生活の味になり得るということに。
もちろんそれは、お互い最低「こいつ何かいいな」くらいの好意を抱いていて初めて成り立つことではあるのだけど。
今わたしは、自分と違う人と過ごすのは面白いものだ、少なくとも面白がる余地があるものだ、という、人間関係のキホンのキみたいなものを初めて体感しているような気がする。
そんなことを考えていたら、また夫がたらみのどっさりみかんゼリーを12個買ってきたので(本当です)、この文章を書きました。夫の考えていることも、結婚してみてどうなのかも、やっぱり分からない。
20170223
この間、池袋に映画を観に行く途中、ふと思い立って、一駅前の東池袋駅で地下鉄を降りた。
去年の春に引っ越すまで十年くらいその近くに住んでいたので、久しぶりに少し歩いてみたくなったのだ。
階段を上って地上へ出ると、左手すぐに建つ店に、赤いにわとり型のネオンが光っているのが見えた。あぁ、何の店か知らないけどこんなのあったな、と思った次の瞬間には、十年分の思い出がどっと溢れ出してきていた。
わたしは毎週土曜の朝に、赤いにわとりの店の前を通って、その先にある西友に、エコバッグ片手に買い物に行っていた。西友での買い物の前には、地下にあるTSUTAYAに寄った。前の週に借りた何枚かのDVDを返し、新しい分を借りた。DVDは途中からBlu-rayになった。
エコバッグの持ち手がずっしりと肩に食い込む感じと、DVDの入ったビニール袋が揺れて脚に触れるしゃらしゃらという音が、生々しく蘇った。
立ち止まっているわたしの横を、若い男女が通り過ぎて行った。おそろいの黒いリュックを背負っていた。リュックは、女の子には少し大きすぎるようだった。この街に住んでいるのだろうか。
西友で買った一週間分の食料を、脚がひとつとれて傾いた冷蔵庫に収め、一週間分の服を洗濯機の中に無理やり押し込んでから、ベッドに寝転び、録りためたドラマなんかを適当に流す。
ベッドの頭側には大きな南向きの窓があったが、長いことカーテンはつけずに、オカダヤかどこかで買った布を適当に切ってつっぱり棒に垂らして代用していた。そのせいで朝は眩しく、冬はとてつもなく寒かった。
気分のいい日は、洗濯物をアパートの屋上に干した。夏のある日、重たいランドリーバスケットを抱きながら階段を上っていくと、つばの広い軽そうな帽子をかぶった女の人が、キャンプの時に使うような背もたれ付きの椅子に座って音楽を流しながらビールか何かを飲んでいた。わたしに気付いて振り返ったその人は、ちょっと照れくさそうに頭を下げてから、また元の姿勢に戻った。わたしは邪魔をしないようにと、慌てて洗濯物を干した。でも正直なところ、ボロいアパートの狭い屋上でそんなことをしているのがちょっと滑稽な感じがして、見ているのが気恥ずかしかったというのもあったと思う。
思い出はまだまだ止まらず、東口五叉路に着く頃には頭が疲れていた。
道の向こう側に目をやると、ユニクロの白い光に照らされて、その前にある喫煙所が人でいっぱいになっているのが、よく見えた。
それでここに住んでいた時に付き合っていた人との煙草についての何か大切そうな思い出が顔を出しかけた時、たまたま信号待ちで目の前に立っている男の人のジーンズのおしりが目に入った。
右のポケットが、豪快に破れていた。破れているというか、下の部分だけかろうじてくっついていて、両側の縫い目は完全にとれていて、かつてポケットだった布が裏地を見せてべろんとたれ下がっているという状態だった。何でこんなことになるんだ、と思った。縫えよ。それかもういっそとっちゃえばいいのに。何でそんなの履き続けてるんだ、ともどかしく見ているうちに、煙草について何を思い出そうとしていたのか、すっかり忘れてしまっていた。
たまたま目にしたもので何かを思い出すことはたくさんあるけど、たまたま目に入ってきたもので何かを忘れることの方が、ちょっと多いような気がする。頭の中のものは、そこに在るものに簡単に負けてしまう。思い出は、べろんべろんのポケットにかき消されてしまった。
あの人あれ以外にズボン持ってないのかな、とぼんやり考えつつ、映画館の椅子に座った。大学生くらいで、髪型もきちんとして、クラッチバッグなんて持って小綺麗にしていたのに。
映画が始まってしばらくの間、斜め前の席の人が携帯をいじり続けていて眩しかった。気になって光る画面をそっと覗いたら、長い英語のメールを打っていた。英語できるのすごいなー、などと思っていたせいで、冒頭のところの印象が薄い。
映画が終わり、明るくなってからその人を見たら、外国の人だった。
帰りは別の道を通って、池袋駅から帰った。散々浮かんだ思い出たちは一年前のも十年前のも一緒くたになって引っ込んで、もうその夜には出てこなかった。
20161202
雨宮まみさんがいなくなってしまったという報せをうけて、信じられないけど、もう20日くらい経ってしまう。
この間の金曜、わたしは大好きなceroのライヴを観に、新木場にあるSTUDIO COASTに行った。STUDIO COASTは、わたしがまみさんに最後に会った場所だ。
ceroのライヴ当日、わたしはどうしたらよいのか、というか、自分がどうしたいのか分からなくなり、家でじっとしているのが嫌になって、19時開演のところ、なぜか15時半頃には会場に着いてしまっていた。当然何もすることがないので、会場の周りをただうろうろした。うろうろと言っても、行ったことのある人は分かるだろうがあの辺りには何もないので、橋の上を行ったり来たりして、川や、興味のないアーティストのライヴの看板や、観覧車や、誰もいなそうな立方体のビルの窓を眺めたりした。さすがに時間をつぶせなくなったのと、薄着で行ったので寒さがこたえてきて、駅ビルのロッテリアに入って、ちびちびポテトを食べた。一応かばんに本を入れてきていたけど、読まなかった。
ceroのライヴはすごく良かった。でも、やっぱりまみさんのことをたくさん思った。
あの日着ていたルアングリーンの背中の大きく開いたドレスのこと、一緒に踊った曲のこと、話した細かい内容まで、思いのほか色々なことを鮮明に覚えていた。そりゃそうだよな、楽しかったもんな、と思った。
でもあの日のことでひとつ、胸が痛いことがある。ライヴの途中で、じゃ、と別れて別行動になり、そのまま会場内ではすれ違わないままだったが、終演後、外で別の友人たちとコンクリートの上に座り込んでしゃべっていてふと顔を上げると、会場から出てくる人波の中に、まみさんを見つけた。わたしは「さっき適当に別れちゃったから、ちゃんと挨拶しようかな」と思って腰を上げかけたけど、「またそのうちライヴかヅカで会えるよね」と思って、そのまま、見送ってしまった。そしてそれが最後になった。
ちゃんと、「まみさんお疲れ様でした、またー」と言っておけばよかったなぁ、と思っている。もし仮に、あの時そう言っていたとしても、わたしは今きっと別の何かを後悔していたと思うし(ご飯に誘っておけばよかったなぁとか)、こういうのは、言い出すときりのない後出しの感傷なんだけど、それでもSTUDIO COASTにいる間じゅう、まみさんのきれいな背中が脳裏に浮かび続けていたし、あの時腰を上げていればよかったということを考え続けずにいられなかった。
ライヴが終わったあと、わたしはあの日「まみさんお疲れ様でした、またー」と言えなかった場所にしばらく立って、帰っていく人たちの波を眺めてみた。特にこれということは何も考えられなかった。ただ淋しかった。まみさんに会いたいと思った。
帰り道は、ceroの中でも特に好きな「FALLIN'」という曲を聞いた。
もうここにはいなくなってしまった人に向けた歌で、「思い出せる」という歌詞が繰り返す。「忘れるわけないだろ」という歌詞もある。今聞くのにぴったりなようで、実際には、今はそこまで心に沿わなかった。まだそういう風に悼む段階には、ないのだと思った。会えなくて淋しいとか、雪組の次のトップのことたくさん話したいのになぁとか、わたしを含めたたくさんの人がまみさんを必要としているのになぁ、なのに何でこの世界にいないんだろうとか、やっぱりみんな嘘なんじゃないかとか、どういうことなんだろうとか、そういうところから先へ、わたしはなかなか行けないでいる。大好きな「FALLIN'」が頭の中でからからと回っていた。
21時過ぎの京葉線には、ディズニーランド帰りの若いカップルがたくさんいて、なぜか分からないけど床がびちゃびちゃに濡れていて、みんながそれを避けていた。何の液体か分からないけどわたしも別の車両に移動した。早く家に着いてくれと思った。
20161111
映画を観に行くために久しぶりに早く起きた。早くと言っても9時くらいだけど、いつもは11時過ぎでないと起きられないので、早い方だ。
賞味期限が切れたパンにバターを塗って焼いて、録画しておいたコント番組を見ながら食べたが頭に入らなかった。
最近無性に何かを練習したくて、ヘアアレンジの練習をしている。インスタで見つけたかわいいアレンジの動画を見ながら四苦八苦して、ようやく髪がまとまった頃には出かける時間の10分前になっていた。日焼け止めを塗って眉毛だけかいてとびだした。
外に出ると雨が降った後みたいで、地面が濡れていた。また降り出しそうな気配があって、部屋に戻って傘を持ってくるべきだと思ったけど、面倒でやめた。持っている中でいちばん厚いコートを着ていたけど、それでも寒かった。
映画はとても良かった。でも何ヶ月かぶりに映画館で映画を観たので最後の方は少し集中力が切れてぼんやりしていたかもしれない。
帰ってきて、きんぴらをつくった。一旦作り終わって味見したら何だかぼんやりした味で、醤油やみりんや砂糖やだしを足したり、水で薄めたり、色々していたら舌がきかなくなって、一度そのまま置いておくことにした。ゆうべ夫が、きんぴらが食べたいと言ったのだった。
独身の頃は、料理をする習慣がなかった。食べることにも興味を持てなくて、納豆ご飯やお菓子を夕飯にしていた。
母もあまり料理が好きではなかった。母の料理は美味しかったし、バリエーションも少ないというわけではなかった。でも、料理をする母はいつも苦痛そうだった。
わたしが上京した後は、帰省するたびに、いつもわたしの好物の豚汁やハンバーグやいかの酢味噌和えやポテトサラダをつくってくれているけど、母はそれらをちょっとつまむだけで済ませている。歳のせいもあるだろうが、元々食べるのもそんなに好きじゃなかったんだろうと思う。
夫もまた食べることに興味がなかった。付き合い始める前、普段夕飯どうしてるんですかと訊かれて、スナック菓子とインスタント味噌汁とかです、と答えると、僕はカロリーメイトとランチパックですと言うので、気が合いそうだと思った。気が合いそうというか、負い目を感じなくて済むと思った。
結婚の話が出た時も、この人ならそんなにご飯を作らなくて済むんだろうな、と思った。
でも結婚したら、夫は意外に、あれが食べたい、と毎日はっきりリクエストしてくるようになった。わたしはそれが苦痛で仕方なく、クックパッドで自分でもできそうな簡単なレシピを探しては、頑張ってつくってみた。だいたい美味しくできたが、まったく楽しくはなかった。洗い物も嫌で仕方なかった。
でもそういう日々が半年くらい続いて、何がきっかけだったか分からないけど、だんだん料理をするのが楽しいと思えるようになってきている。
これが食べたいという気持ちと、じゃあ作ってみようという気持ちと、出来たぞ食べようという気持ちと、美味しいという気持ちが、一本につながってそこへきちんと血が通い始めた感じがする。今日のきんぴらだって、「きんぴらならいつもより辛いのが食べたい気分だな」と思って、赤唐辛子をたっぷり入れてつくった。見るだけで舌がひりつくのが想像できるような出来上がりは、深く自然な満足感を抱かせてくれる絵だった。
一旦置いていたきんぴらを食べると、冷えて味がしみて落ち着いて、きちんと美味しくなっていた。辛かった。うれしいと思えた。
わたしはこれまで、食べたい→作ってみよう→出来たから食べよう→美味しい(美味しくない)! という気持ちの動きを、体験したことがなかった。そして、そういう過程を経て、料理する喜びみたいなものが生まれることがあるのだということも、知らなかった。それを実践している人が、周りにいなかったからだと思う。
わたしは料理を楽しいと思いたかったのかもしれない。そう思えるチャンスをたまたま逃し続けてきて、たまたまそれが、今やってきたのかもしれない。
これが一時の気まぐれじゃなくて、ずっと続くといいなと思う。
この文章を書いている途中で、無性にフレンチトーストが食べたくなったので、明日の朝つくろうと思う。
20160723-24
土曜に友達と会った。
本当は7月の頭に会うはずが友達が風邪をひき、
パンケーキを食べながら散々話して、
思わず笑ってしまったシーンなんかをいくつか教えてくれ、
確かにそうだ、
すごく精密な検眼をしてくれる眼鏡屋さんで、
出来上がった日、それを掛けて、
驚きと悔しさがひと段落すると、
検査の話に戻るけど、丸のあいている方を答える目の検査で、
話題のあの人は、聞こえているとも聞こえていないとも検査結果が出ていて、会見で、手話の通訳の前に返答して笑われたりもしていた。本人も聞こえているかいないか、というかそもそも聞こえるってどういう状態までを指すのか分かっていない、ということは全然あり得て、実のところは、誰にも分からない。
見るとか聞くとか感じるとかいうことは、それくらい不確かで、かつ
聞こえる、と、聞こえない、の間には、グラデーションがある、というような言い方をする人もいるけど、そこにあるのはグラデーションなんていうきれいなものではないと思う。もっと、混沌としているものなのではないか。グラデーションというより、マーブル模様のような。
そんなことを考えた翌日、夫と夫の上司の家族とキャンプ場に行った。ご飯を食べて片付けが終わった後、二人で遊んできて、と言われ、芝生の広場や釣り堀やアスレチック場をつなぐ道
夫に携帯を渡し、動画を撮ってれと頼んで順番を待ち、ポニーにまたがった。
降りてから、夫の撮ってくれた動画を見たら、
でも、馬にまたがった瞬間の、わたしの驚いた顔はばっちり撮れていて、わたしは自分がこんな顔をしていたのか、とまた驚いた。
ポニーの頭とか、地面とか、柵とか、
それでもわたしは、そんな気分を何度も忘れると思う。そしてきっと何度も思い出す。そういう性懲りもない瞬間の繰り返しと集積が、多分わたしたちをかたちづくっていく。
20160522
20160312
20160101
20151205
20151130
仕事が終わって地下鉄で病院に向かう途中、Twitterで水木しげる先生が亡くなったことを知った。正確に言うと、みんなが水木先生の話をしていたので「亡くなったんだな」と思っただけで、公式な訃報には触れていない。
台所で母親が夕食の準備をしている気配を背中で聞きながら、『ゲゲゲの鬼太郎』の再放送を面白いとも面白くないとも思わずただ見ていたこととか、NHKでやっていたドラマ版の『のんのんばあとオレ』は面白くて夢中になって見ていたこととか、正直それくらいしか思い出はない。でも素直に残念だと思った。人が死ぬのは残念なことだ。誰であれいくつであれ、それはそんなに変わらない。
小さい頃洋画を観ていて、お悔やみを伝える場面で「残念だったわね」という字幕が表示されると、妙な気分になった。「sorry」という単語とも、意味合いがうまく結びつかなかった。「残念」っていうのは、たとえばすごく努力したけど思うような結果が得られなかった時とかに使う言葉で、人が死んだ時に使うのにはそぐわないんじゃないか、これは正しい訳なのだろうか? と思っていた。
でもいつからか、人が死ぬのは残念なことだと思うようになった。悲しいと思うより先にそう思うようになった。仕方ないな、でもとても残念だな、と。
父方の祖父の葬式で、わたしは少しも悲しいと思わなかった。悲しいと思えるほど、深い付き合いがなかった。というかよりはっきり言うと祖父母とあまりいい関係を築けていなかったので、今、祖父と交わした会話を思い出そうと記憶を掘り返しているけれど、ただの一言も出てこない。
通夜の夜、祖父の遺体のそばで、寿司を食べたことは妙にはっきりと覚えている。
遺体のそばで食べる寿司はどんな味だろうと思ったが、寿司は寿司の味だったし、食欲も普通に湧いた。ネタが渇いていて、シャリがうまくまとまっていなくて、味音痴の自分にも、大した寿司ではないことが分かった。寿司を食べながら祖父の顔を見ると、ぬらりひょんに似ていた。生きている時から似ていたが、死んだことでより一層似たな、と思った。不謹慎だと思ったが、思ってしまったものは仕方ない。
焼かれた祖父の骨には、ところどころ蛍光マーカーみたいな鮮やかな色がついていた。「これ、何の色ですか」と親戚の誰かが訊いて、「飲んでいた薬のせいではないか」というようなことを火葬場の人が言った。
骨壺に骨を納める段になって、それまでぼんやりしていた祖母が突然取り乱して驚いた。斎場から火葬場に向かうバスの中で酔ってしまい、頭が痛くて早く帰りたかった。遅れてやってきた兄は、制服を着崩していて、ズボンからパンツが半分くらい出ていた。
祖父はいわゆる成金で、大きな家に住んでいた。庭は純和風に整えられ、池にはでっぷりとした錦鯉が泳いでいた。羽振りが良く面倒見がよかったようで、わたしが幼い頃は素性のよく分からない取り巻きのような人たちが何人かいて、その謎のおじさんたちにお嬢さんお嬢さん、とちやほやされた時期もあったが、祖父が病床についたのを機に、そうした人たちはみんな離れていったようだった。
そのうちのひとりが、葬式に来ていた。
後日そう言うと、どういうわけか父も親戚も誰もその人の姿を見ていないと言い、「人違いじゃないか」と言われたが、あれは確かにあの人だった。かつてどう見ても堅気らしくない時代錯誤な三つボタンのスーツに身を包み、高級車を乗り回していたその人は、古ぼけて汚れたジャンパーを羽織り、作業ズボンのようなものを履いて、片足を引きずっていた。老いてやつれた面差しに、昔の名残りが少しだけ見えた。その人は棺の中の祖父の顔を、随分長いこと見つめていた。
人が死ぬと、誰かが死んだ時のことを思い出す。
わたしは祖父のことをよく知らなかったし今も知らないが、つかの間の夢のようないい時代を少し共有しただけであろう素性のよく分からない人に、死に顔をじっと見つめられるような人だったのだ、と思ったことを、今、何年かぶりに思い出している。
あの人のあのまなざしは何だったのだろうと思う。悲しみか、懐かしさか、あるいは恨みか。
あの人も、ただ残念だと思っていたのかもしれない。年齢不詳な人だったが、今も生きているだろうか? もし、もう死んでいたら、葬式はちゃんと出してもらえたろうか。そこに死に顔をじっと見つめる誰かはいただろうか。
人が死ぬと自分が死ぬ時のことも考える。わたしが死んだら葬式は行われるだろうか。死に顔をじっと見つめる人はいるだろうか。
婚約者は「考えても仕方のないことはなるべく考えないようにしなよ」とよく言う。
でもわたしは考えても仕方のないことを考えずにはいられない。意味も脈絡もなく、正確かどうかも分からない、思い出しても仕方のない記憶の断片を継ぎ合わせたのが今のわたしだと思うからだ。
あの人がもし死んでいたら、悲しくはないが、残念だと思う。
でも顔はうまく思い出せなかった。スーツと黒塗りの高級車しか、もう思い出せない。