母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20170303

結婚おめでとう、と言われる時期を過ぎ、結婚してみてどう? とか、楽しい? と訊かれる機会が増えてきた。
何回訊かれても、「いやぁ、分かんないなぁ」「どうかなぁ」みたいなことしか言えない。
もしこれが死ぬ直前だったら「いい人生だった……」とか言う可能性はなくもないけど、とりあえず今はどうもこうもなく進行する生活の只中にいるので、どの時点のどの何をどう答えたらよいか、困惑してしまう。そもそも生活って総括して語れるものでもないしなぁ、とも思う。
それでいつも、わたしは口の中でもごもご言う。相手が、ただ話のきっかけに結婚のことを持ち出しているのは、百も承知なのだが。

この間、高校の同級生の結婚式があった。
思い出話に花を咲かせていたらあっという間に終電で、足早にみんなと別れ、ひとり地下鉄のドアに寄りかかって自分の顔を見ていたら、ふっと脳みその「思い出スイッチ」みたいなものがオンになり、高校1年生から29歳の現在に至るまで好きになった人たちのことを順番に思い出すという、やや気持ち悪い行為にふけってしまった。
その結果、これまでわたしは、その人と分かり合えそうかどうかを基準に、恋人になりたいかどうかを考えてきたことが分かった。「分かり合える人」に出会おうとしてきた。

過去の恋人たちとは、必ず共通の趣味があった。完全に共通していなくても、お互いの好きなものを教え合ったり貸し借りしたりして楽しめた。「いいね」と言い合えた。思考回路や言葉の運用の仕方も、何となく自分と似通っていた。少なくとも、想像がついた。

わたしと夫はそうではない。
わたしは夫が何を考えているかが、全く分からない。他人の考えていることなど分からなくて当たり前なのだが、それを抜きにしても、本当に分からない。

先日外出中に、夫から「今スーパーにいるけど欲しいものある?」とメールがあった。「みかんゼリーが食べたいかな」と返信し、帰って冷蔵庫を開けて仰天した。大量のみかんゼリーが入っていた。13個。
「何で13個も買ったの?」と訊いた。安売りしていた、買いだめしておこうと思った、たくさん食べたいのかと思った……あたりの返答を想定していたのだが、夫は一言「あったから」と答えた。
「え? 全部買い占めたってこと?」
「買い占めたっていうか、たまたま13個あったんだよ」
「じゃあ30個陳列されてたら30個買ってたってこと?」
夫はしばらく首をひねっていた。
「いや、でも実際30個なかったからね。それは分かんないよね、本当にそこに30個ないとさ」
「はぁ」
「でもあの棚そんなに奥行きないよ」

意味が分からないと思いながらみかんゼリーを食べ続けていた数日後、夫はまたみかんゼリーを12個買った。理由を訊いても分からなさそうなので、もう何も言わなかった。
でもわたしは内心、分からない、というその状態を自分が面白がっているのに気付いていた。分からなさという余白が、何だか楽しいということに。

若い頃は、こういう人と付き合うとは思っていなかった。
自分と同じように文系の学部を卒業し、そこそこの企業で文句を言いつつも真面目に働いて、休日は小説や映画や音楽を楽しみ、ミッドセンチュリー的な家具で揃えたいけすかない部屋に住み、気の利いたバーを知っていて、ツーブロックで眼鏡で……みたいな、自分の想像できる範囲に生息している想像できる人とペアを組むのだと思っていた。
まさか会話すらまともに成立しない相手とひとつ屋根の下、おまけに特に苦痛もなく暮らすとは、思いもしなかった。

わたしは別に夫が変人だと言いたいわけではない。わたしにとって多少違和感があったというだけで、みかんゼリーを大量に買う人くらい、それこそ大量にいるだろう。

わたしが言いたいのは、自分が今「分からない」ということを、恐れなくなったのがうれしいということだ。うれしいというか、驚いている。分からなくても共に生活できる、ということに。疑問や違和感といったノイズが、生活の味になり得るということに。
もちろんそれは、お互い最低「こいつ何かいいな」くらいの好意を抱いていて初めて成り立つことではあるのだけど。

今わたしは、自分と違う人と過ごすのは面白いものだ、少なくとも面白がる余地があるものだ、という、人間関係のキホンのキみたいなものを初めて体感しているような気がする。

そんなことを考えていたら、また夫がたらみのどっさりみかんゼリーを12個買ってきたので(本当です)、この文章を書きました。夫の考えていることも、結婚してみてどうなのかも、やっぱり分からない。

20170223

この間、池袋に映画を観に行く途中、ふと思い立って、一駅前の東池袋駅で地下鉄を降りた。
去年の春に引っ越すまで十年くらいその近くに住んでいたので、久しぶりに少し歩いてみたくなったのだ。

階段を上って地上へ出ると、左手すぐに建つ店に、赤いにわとり型のネオンが光っているのが見えた。あぁ、何の店か知らないけどこんなのあったな、と思った次の瞬間には、十年分の思い出がどっと溢れ出してきていた。

わたしは毎週土曜の朝に、赤いにわとりの店の前を通って、その先にある西友に、エコバッグ片手に買い物に行っていた。西友での買い物の前には、地下にあるTSUTAYAに寄った。前の週に借りた何枚かのDVDを返し、新しい分を借りた。DVDは途中からBlu-rayになった。
エコバッグの持ち手がずっしりと肩に食い込む感じと、DVDの入ったビニール袋が揺れて脚に触れるしゃらしゃらという音が、生々しく蘇った。

立ち止まっているわたしの横を、若い男女が通り過ぎて行った。おそろいの黒いリュックを背負っていた。リュックは、女の子には少し大きすぎるようだった。この街に住んでいるのだろうか。

西友で買った一週間分の食料を、脚がひとつとれて傾いた冷蔵庫に収め、一週間分の服を洗濯機の中に無理やり押し込んでから、ベッドに寝転び、録りためたドラマなんかを適当に流す。
ベッドの頭側には大きな南向きの窓があったが、長いことカーテンはつけずに、オカダヤかどこかで買った布を適当に切ってつっぱり棒に垂らして代用していた。そのせいで朝は眩しく、冬はとてつもなく寒かった。

気分のいい日は、洗濯物をアパートの屋上に干した。夏のある日、重たいランドリーバスケットを抱きながら階段を上っていくと、つばの広い軽そうな帽子をかぶった女の人が、キャンプの時に使うような背もたれ付きの椅子に座って音楽を流しながらビールか何かを飲んでいた。わたしに気付いて振り返ったその人は、ちょっと照れくさそうに頭を下げてから、また元の姿勢に戻った。わたしは邪魔をしないようにと、慌てて洗濯物を干した。でも正直なところ、ボロいアパートの狭い屋上でそんなことをしているのがちょっと滑稽な感じがして、見ているのが気恥ずかしかったというのもあったと思う。

思い出はまだまだ止まらず、東口五叉路に着く頃には頭が疲れていた。
道の向こう側に目をやると、ユニクロの白い光に照らされて、その前にある喫煙所が人でいっぱいになっているのが、よく見えた。

それでここに住んでいた時に付き合っていた人との煙草についての何か大切そうな思い出が顔を出しかけた時、たまたま信号待ちで目の前に立っている男の人のジーンズのおしりが目に入った。
右のポケットが、豪快に破れていた。破れているというか、下の部分だけかろうじてくっついていて、両側の縫い目は完全にとれていて、かつてポケットだった布が裏地を見せてべろんとたれ下がっているという状態だった。何でこんなことになるんだ、と思った。縫えよ。それかもういっそとっちゃえばいいのに。何でそんなの履き続けてるんだ、ともどかしく見ているうちに、煙草について何を思い出そうとしていたのか、すっかり忘れてしまっていた。

たまたま目にしたもので何かを思い出すことはたくさんあるけど、たまたま目に入ってきたもので何かを忘れることの方が、ちょっと多いような気がする。頭の中のものは、そこに在るものに簡単に負けてしまう。思い出は、べろんべろんのポケットにかき消されてしまった。

あの人あれ以外にズボン持ってないのかな、とぼんやり考えつつ、映画館の椅子に座った。大学生くらいで、髪型もきちんとして、クラッチバッグなんて持って小綺麗にしていたのに。

映画が始まってしばらくの間、斜め前の席の人が携帯をいじり続けていて眩しかった。気になって光る画面をそっと覗いたら、長い英語のメールを打っていた。英語できるのすごいなー、などと思っていたせいで、冒頭のところの印象が薄い。
映画が終わり、明るくなってからその人を見たら、外国の人だった。

帰りは別の道を通って、池袋駅から帰った。散々浮かんだ思い出たちは一年前のも十年前のも一緒くたになって引っ込んで、もうその夜には出てこなかった。

20161202

雨宮まみさんがいなくなってしまったという報せをうけて、信じられないけど、もう20日くらい経ってしまう。
この間の金曜、わたしは大好きなceroのライヴを観に、新木場にあるSTUDIO COASTに行った。STUDIO COASTは、わたしがまみさんに最後に会った場所だ。
ceroのライヴ当日、わたしはどうしたらよいのか、というか、自分がどうしたいのか分からなくなり、家でじっとしているのが嫌になって、19時開演のところ、なぜか15時半頃には会場に着いてしまっていた。当然何もすることがないので、会場の周りをただうろうろした。うろうろと言っても、行ったことのある人は分かるだろうがあの辺りには何もないので、橋の上を行ったり来たりして、川や、興味のないアーティストのライヴの看板や、観覧車や、誰もいなそうな立方体のビルの窓を眺めたりした。さすがに時間をつぶせなくなったのと、薄着で行ったので寒さがこたえてきて、駅ビルのロッテリアに入って、ちびちびポテトを食べた。一応かばんに本を入れてきていたけど、読まなかった。

ceroのライヴはすごく良かった。でも、やっぱりまみさんのことをたくさん思った。
あの日着ていたルアングリーンの背中の大きく開いたドレスのこと、一緒に踊った曲のこと、話した細かい内容まで、思いのほか色々なことを鮮明に覚えていた。そりゃそうだよな、楽しかったもんな、と思った。
でもあの日のことでひとつ、胸が痛いことがある。ライヴの途中で、じゃ、と別れて別行動になり、そのまま会場内ではすれ違わないままだったが、終演後、外で別の友人たちとコンクリートの上に座り込んでしゃべっていてふと顔を上げると、会場から出てくる人波の中に、まみさんを見つけた。わたしは「さっき適当に別れちゃったから、ちゃんと挨拶しようかな」と思って腰を上げかけたけど、「またそのうちライヴかヅカで会えるよね」と思って、そのまま、見送ってしまった。そしてそれが最後になった。
ちゃんと、「まみさんお疲れ様でした、またー」と言っておけばよかったなぁ、と思っている。もし仮に、あの時そう言っていたとしても、わたしは今きっと別の何かを後悔していたと思うし(ご飯に誘っておけばよかったなぁとか)、こういうのは、言い出すときりのない後出しの感傷なんだけど、それでもSTUDIO COASTにいる間じゅう、まみさんのきれいな背中が脳裏に浮かび続けていたし、あの時腰を上げていればよかったということを考え続けずにいられなかった。

ライヴが終わったあと、わたしはあの日「まみさんお疲れ様でした、またー」と言えなかった場所にしばらく立って、帰っていく人たちの波を眺めてみた。特にこれということは何も考えられなかった。ただ淋しかった。まみさんに会いたいと思った。

帰り道は、ceroの中でも特に好きな「FALLIN'」という曲を聞いた。

もうここにはいなくなってしまった人に向けた歌で、「思い出せる」という歌詞が繰り返す。「忘れるわけないだろ」という歌詞もある。今聞くのにぴったりなようで、実際には、今はそこまで心に沿わなかった。まだそういう風に悼む段階には、ないのだと思った。会えなくて淋しいとか、雪組の次のトップのことたくさん話したいのになぁとか、わたしを含めたたくさんの人がまみさんを必要としているのになぁ、なのに何でこの世界にいないんだろうとか、やっぱりみんな嘘なんじゃないかとか、どういうことなんだろうとか、そういうところから先へ、わたしはなかなか行けないでいる。大好きな「FALLIN'」が頭の中でからからと回っていた。

21時過ぎの京葉線には、ディズニーランド帰りの若いカップルがたくさんいて、なぜか分からないけど床がびちゃびちゃに濡れていて、みんながそれを避けていた。何の液体か分からないけどわたしも別の車両に移動した。早く家に着いてくれと思った。

20161111

映画を観に行くために久しぶりに早く起きた。早くと言っても9時くらいだけど、いつもは11時過ぎでないと起きられないので、早い方だ。
賞味期限が切れたパンにバターを塗って焼いて、録画しておいたコント番組を見ながら食べたが頭に入らなかった。


最近無性に何かを練習したくて、ヘアアレンジの練習をしている。インスタで見つけたかわいいアレンジの動画を見ながら四苦八苦して、ようやく髪がまとまった頃には出かける時間の10分前になっていた。日焼け止めを塗って眉毛だけかいてとびだした。
外に出ると雨が降った後みたいで、地面が濡れていた。また降り出しそうな気配があって、部屋に戻って傘を持ってくるべきだと思ったけど、面倒でやめた。持っている中でいちばん厚いコートを着ていたけど、それでも寒かった。

 

映画はとても良かった。でも何ヶ月かぶりに映画館で映画を観たので最後の方は少し集中力が切れてぼんやりしていたかもしれない。

 

帰ってきて、きんぴらをつくった。一旦作り終わって味見したら何だかぼんやりした味で、醤油やみりんや砂糖やだしを足したり、水で薄めたり、色々していたら舌がきかなくなって、一度そのまま置いておくことにした。ゆうべ夫が、きんぴらが食べたいと言ったのだった。

独身の頃は、料理をする習慣がなかった。食べることにも興味を持てなくて、納豆ご飯やお菓子を夕飯にしていた。

 

母もあまり料理が好きではなかった。母の料理は美味しかったし、バリエーションも少ないというわけではなかった。でも、料理をする母はいつも苦痛そうだった。
わたしが上京した後は、帰省するたびに、いつもわたしの好物の豚汁やハンバーグやいかの酢味噌和えやポテトサラダをつくってくれているけど、母はそれらをちょっとつまむだけで済ませている。歳のせいもあるだろうが、元々食べるのもそんなに好きじゃなかったんだろうと思う。

 

夫もまた食べることに興味がなかった。付き合い始める前、普段夕飯どうしてるんですかと訊かれて、スナック菓子とインスタント味噌汁とかです、と答えると、僕はカロリーメイトとランチパックですと言うので、気が合いそうだと思った。気が合いそうというか、負い目を感じなくて済むと思った。
結婚の話が出た時も、この人ならそんなにご飯を作らなくて済むんだろうな、と思った。

でも結婚したら、夫は意外に、あれが食べたい、と毎日はっきりリクエストしてくるようになった。わたしはそれが苦痛で仕方なく、クックパッドで自分でもできそうな簡単なレシピを探しては、頑張ってつくってみた。だいたい美味しくできたが、まったく楽しくはなかった。洗い物も嫌で仕方なかった。

 

でもそういう日々が半年くらい続いて、何がきっかけだったか分からないけど、だんだん料理をするのが楽しいと思えるようになってきている。
これが食べたいという気持ちと、じゃあ作ってみようという気持ちと、出来たぞ食べようという気持ちと、美味しいという気持ちが、一本につながってそこへきちんと血が通い始めた感じがする。今日のきんぴらだって、「きんぴらならいつもより辛いのが食べたい気分だな」と思って、赤唐辛子をたっぷり入れてつくった。見るだけで舌がひりつくのが想像できるような出来上がりは、深く自然な満足感を抱かせてくれる絵だった。

一旦置いていたきんぴらを食べると、冷えて味がしみて落ち着いて、きちんと美味しくなっていた。辛かった。うれしいと思えた。

 

わたしはこれまで、食べたい→作ってみよう→出来たから食べよう→美味しい(美味しくない)! という気持ちの動きを、体験したことがなかった。そして、そういう過程を経て、料理する喜びみたいなものが生まれることがあるのだということも、知らなかった。それを実践している人が、周りにいなかったからだと思う。
わたしは料理を楽しいと思いたかったのかもしれない。そう思えるチャンスをたまたま逃し続けてきて、たまたまそれが、今やってきたのかもしれない。
これが一時の気まぐれじゃなくて、ずっと続くといいなと思う。

 

この文章を書いている途中で、無性にフレンチトーストが食べたくなったので、明日の朝つくろうと思う。

20160723-24

土曜に友達と会った。

本当は7月の頭に会うはずが友達が風邪をひき、中旬に延ばしたが今度はわたしが体調を崩し、延び延びになっていたのが、やっと実現したのだった。

 

パンケーキを食べながら散々話して、コーヒー屋に場所を移すまでの間、友達が映画『FAKE』の話をしてくれた。ゴーストライター疑惑で話題になったあの人に密着した、ドキュメンタリー映画だ。

 

思わず笑ってしまったシーンなんかをいくつか教えてくれ、二人してゲラゲラと笑ったのだが、笑いが収まった頃に、友達がぽつりと、「でもやっぱり、本当に聞こえてるか聞こえてないか、分からないよね」と言う。

確かにそうだ、と自分事のように思ったのは、わたしが最近眼鏡を買ったからことと関係がある。

 

すごく精密な検眼をしてくれる眼鏡屋さんで、そこで初めて自分の目のつくりが複雑だということが判明し、それに合わせた眼鏡をつくってもらった。

出来上がった日、それを掛けて、眼鏡屋さんの店内をぐるりと見渡した時の驚きは忘れられない。世界が三次元だということに初めて気付いたみたいに、物の立体感が昨日とはまるで違って見えた。物をかたちづくる線も、一本一本くっきりときれいに見えた。世界はこんな風にできていたのか、こんな風にできていたのに、わたしにはこんな風に見えていなかったのか、と思うと、ショックだった。自分には見落としたものや、間違って見ていたものが数え切れないほどある。なぜもっと早くきちんとした眼鏡屋さんに出会えなかったのか、と悔しくて泣けてしまった。

 

驚きと悔しさがひと段落すると、ふつふつと疑問が湧き上がってきた。そもそもみんな違ったように物を見ているのに、正しい見え方とか間違った見え方とか、そんなのものはないんじゃないだろうか。世界がどうできているとか、分からないんじゃないか。これの正しい色やかたちはこうだとか、そんなこと誰に分かるのだろう? セブンイレブンの看板のオレンジと緑はみんな違う濃さで見えているのかもしれない、そもそもオレンジと緑じゃないのかも、と考えた。小学生でも考えそうな、恥ずかしいほど幼稚な疑問なのだけど。

 

検査の話に戻るけど、丸のあいている方を答える目の検査で、見えるか見えないかのサイズになってくると、わたしはいつもどうすべきか迷う。見えるような気もする、左のような下のような気もする、でも全然見えないような気もする。で、適当に答える、ということが多いのだけど、その返答に基づいてあなたの視力はこれですということが数値で出されてしまう。見えているかどうか、わたしにもよく分からないのに、右目の視力が0.2ということになる。

 

話題のあの人は、聞こえているとも聞こえていないとも検査結果が出ていて、会見で、手話の通訳の前に返答して笑われたりもしていた。本人も聞こえているかいないか、というかそもそも聞こえるってどういう状態までを指すのか分かっていない、ということは全然あり得て、実のところは、誰にも分からない。

見るとか聞くとか感じるとかいうことは、それくらい不確かで、かつみんなそれぞれ違っているから、全然わけが分からないことで、誰にも何も言えない。

聞こえる、と、聞こえない、の間には、グラデーションがある、というような言い方をする人もいるけど、そこにあるのはグラデーションなんていうきれいなものではないと思う。もっと、混沌としているものなのではないか。グラデーションというより、マーブル模様のような。

 

そんなことを考えた翌日、夫と夫の上司の家族とキャンプ場に行った。ご飯を食べて片付けが終わった後、二人で遊んできて、と言われ、芝生の広場や釣り堀やアスレチック場をつなぐ道をぷらぷら歩いていると、ポニーに乗れる場所があった。わたしは馬が大好きなので、乗りたい乗りたい! とひと通りはしゃぎ、乗ることにした。

 

夫に携帯を渡し、動画を撮ってれと頼んで順番を待ち、ポニーにまたがった。ポニーが一歩踏み出すごとに体が左右に大きく揺れ、とても怖かった。前を見ると、当たり前だけどいつもより視線が高くて、ますます怖くなる。あまりにおこがましくてばからしいのだが、武豊騎手や戸崎圭太騎手が見る景色はどんななんだろう? とも考えた。

 

降りてから、夫の撮ってくれた動画を見たら、全然ちゃんと撮れていなくて、半分くらいわたしじゃないところを撮っていた。ポニーの頭だけとか、地面とか、柵とか、周りにあるデパートの屋上にあるような乗り物とか、走り回る子供とか。

でも、馬にまたがった瞬間の、わたしの驚いた顔はばっちり撮れていて、わたしは自分がこんな顔をしていたのか、とまた驚いた。わたしはこの人の前で、こういう顔をするのか。じゃあ、あの日一緒に眼鏡を取りに行って、掛けた瞬間も、こんな顔をしていたのかもしれない。

 

ポニーの頭とか、地面とか、柵とか、周りにあったデパートの屋上にあるような乗り物とか、走り回る子供とか、わたしとか、それらを映しているのは携帯のカメラであり、夫の手と目だ。そして、動画の中のわたしがカメラに目を向ける瞬間、わたしは夫の手と、その向こうの目も見ている。わたしたちはそれぞれに、違うものを見ている。動画を見て、わたしは夫のわたしを見る目を知る。わたしが夫を見る目を知る。

その晩、夫が眠った後、わたしは何度も何度も、動画を再生した。動画の中のわたしは、肩の力が抜けていて、自由に自然にしているように見える。コンプレックスである前歯を恥ずかしがることなくむき出しにして、驚いたり、笑ったりしている。これがあの人が見ているわたしか、と思い、わたしは自分がこの人と結婚しようと思った瞬間のことを思い出し、ひそかに胸を熱くした。

 

それでもわたしは、そんな気分を何度も忘れると思う。そしてきっと何度も思い出す。そういう性懲りもない瞬間の繰り返しと集積が、多分わたしたちをかたちづくっていく。

20160522

昨日、日比谷野音で行われたceroのライヴに行った(もしceroを知らない人がいたらググってください)。
わたしはceroが大好きで、このライヴを心の底から楽しみにしていた。比喩でなく、指折り数えてこの日を待っていた。

去年の秋ごろから、つらいことが続いていた。考えてみればひとつひとつは大したことではないのだが、生活というのはたくさんのことがいっしょくたになり進んでいるもので、つらいこともつらくないことも、ひとつずつはやってこない。束になったり層になったりしながらあれこれが押し寄せてきて、わたしの頭の中では、もう頑張れない、あと少し頑張ろう、もう頑張れない、というのが、いつも交互にぱかぱかと点滅していた。

今年に入り、ceroの東西野音でのワンマンライヴが発表された時、それだけでもう救われた気持ちがした。何があってもそれまでは頑張ろうと思った。きちんとその日を見届けたいと思った。そして昨日を迎えた。

ライヴの前半は、感情が高ぶりすぎて、最高に楽しい! という以外は記憶が曖昧なのだが、気持ちが落ち着いてきた頃にふと、隣の女の子が歌っていることに気付いた。
隣にいる人にしか聞こえないくらいの大きさで、高城さんが歌うのに合わせてそっと口ずさんでいた。もしかしたら、わたしが興奮していた間も歌っていたのかもしれない。

それを聞いて、わたしはこの子は今までこの歌を、何回くらい歌ったのかなと考えた。
何回くらい聞いたのか、誰と聞いたのか、どんな部屋で聞いたのか、何を食べながら聞いたのか、夏だったのか冬だったのか、どの道を歩きながら聞いたのか、何線に乗りながら聞いたのか、その時中吊りには何が書かれていたか、そういうことを延々と想像した。妄想した。
音楽は部屋で聞けて、外へ持ち歩くことができて、こうして生で聞きに行くこともできて、すごくつまらないことを言うけど、ここに集まっている全員にceroの曲にまつわる物語があるんだと思ったら、果てしない気持ちになった。
そしてその物語の大半は、何の変哲もなくありきたりで、めちゃくちゃにドラマティックなものなんて多分そうそうない。でもそれは、その人だけのものだ。
わたしのceroの曲にまつわる物語も、とりたててドラマティックではない。でも、まごうことなく全部わたしだけのものだ。仮に誰かと一から十まで全く同じだったとしても、わたしのものだ。
そう考えたら、さらに果てしない気持ちになった。
ここにいるわたしとわたし以外の人たちは、程度の違いこそあれceroが好きだろう。そして今同じ場所で同じ音に耳を傾けている。でも何もかもが違っている。わたしとわたし以外の人は違うし、人は一人一人みんな違っているんだということに、初めて気が付いたような気分だった。もちろんそんなことは物心ついた頃から頭では分かっていた。でも、体感としてそれをはっきりと理解したのは、昨日が初めてだった。

わたしは会場を見渡して、ステージを見て、ステージの奥に建つ大きなオフィスビルを見て、それから空を見た。ヘリか小型の飛行機が飛んでいくところだった。あの中にも人生があるのだ、と思った。

そしてわたしは、この先このわたしだけの人生を、どうしたいんだろうと考えた。
20歳くらいの頃は、28歳ってようやく仕事が楽しくなってきたり、お金がそこそこ貯まってきたり、デパートの一階で大して躊躇せず高い化粧品を買ったり、おしゃれなレストランでご飯を食べたり、ドラマみたいな大恋愛をしたり、友達と気軽にハワイに遊びに行ったりするのかと思っていた。でも実際にはわたしは一度もそんなことを経験していない。というかそもそもそんなことしたかったのかも分からなくて、ぼんやりしていたら今日になっていた。恥ずかしくて、不甲斐ない。
でも、この際どうしたかったかはもうどうでもいいし、どうしようもない。今、どうしたいのかを、今、考えなくてはだめだと思った。考えた方がいい、というのとは違う。考えなくてはいけないと強く思った。

わたしはまず、とにかく今この瞬間したいことをしてみようと思った。些細なことでも、したいことを少しずつ積み上げていけば、だんだん自分や、自分の人生の輪郭が見えてくるのではないかと思った。それで、今何をしたいかな、と考えて、隣の女の子のように歌ってみたいと思った。大好きなceroの演奏に合わせてわたしも歌ってみたかった。
わたしは、彼女よりずっとずっと小さな声、わたし自身にしか聞こえないくらいの声で歌ってみた。
口から声が出たら、それと一緒に涙が出た。わたしはずっと歌いたかった、声を上げたかったのだということに気付いた。

女の子は相変わらず歌っていて、高城さんももちろん歌っていて、わたしは泣けてしまってもう歌えなくなっていた。
女の子のひらひらしたカットソーの袖が、わたしの腕に触れては離れた。彼女は体を揺らし、歌いながら、時折眼鏡と顔の隙間に指を入れて涙を拭っていた。

同じだね、でも違うね、と思った。
永遠に分かることのない彼女の心の内に勝手に思いを馳せながら、ceroの素晴らしい演奏と歌声と、雨の予感を含んだ空気と夕暮れに溶けていく彼女の細い声を聞いた。よく生きたいと思った。

20160312

ライヴハウスへ向かう途中、ホテル街で足早に前を行く女の子の後頭部の左側の毛がうねっていた。もともとの癖にも見えたし、寝癖にも見えた。黄味がかった茶色に、金のハイライトが入っている。腰のあたりにリボンがあしらわれた白いフェイクファーのアウターの毛は、へたっていた。
女の子は歩く速度を全く緩めないままベージュの大きな革のバッグにさっと手を入れ、何かを取り出して頭に振りかけた。白い霧が広がり、一瞬で消えた後、果物のような花のような香りが鼻に届いて、それがヘアコロンだと気付いた。女の子はキャバクラのようなガールズバーのようなお店へ入っていったが、彼女のいなくなった後も香りはそこにあった。

今日観たライヴは、とても良かった。
どの演奏も素晴らしかったけど、今日のイベントの主催であり主役のbeipanaさんの演奏と、VIDEOTAPEMUSICさんのVJがたまらなく良くて、夢の中にいるような気分になった。
ライヴハウスの窓から見える景色も、夢心地に拍車をかけていた気がする。良質な音楽が流れる落ち着いた雰囲気の洒落た店内、その大きな窓の向こうには東京の空が一応あるにはあるのだが、古臭くてけばけばしいラブホテルのネオンがいくつも光っている。洗練された空間と、窓一枚隔てた向こうに広がる俗っぽい風景。外と内とのそのギャップが、わたしから現実味を奪っていた。

しかし、その風景には不思議な感じこそあれ、決して嫌な感じはなかった。人の様々な営みが、限られた土地に詰め込まれ、地続きに並べられている。あらゆる人のあらゆる時間が、序列もなくただ共にそこにある。それはいとおしい街の風景だった。
その上にVIDEOさんが映像を重ねていく。ラブホ街の空で熱帯魚が泳いだり、人が踊ったり、半裸でプールへ飛び込んだりするのを見たのは、もちろん今夜が初めてだった。

その映像の中に、水の上で、光がきらきらときらめいている映像があった。はっきり像が見えなかったので定かではないが、海か、あるいは川の上で光が光っているような映像だったと思う。

先週婚約者に、本当に結婚したいと思っているのか、と問われて、わたしは「したいと思っていると思う」と答えた。その日の昼間、わたしたちは、わたしが思いやりのない態度をとったせいで少し揉めていた。

自分が本当に結婚したいと思っているのか、わたしにはよく分からない。話はすでにしたいかしたくないかという段階を過ぎ、「する」ということの先へと日々着々と進んでいっているので、今更そこへ頭と心を巻き戻すことができない。
「本当に」の「本当」がどういうことを指しているかも分からないし、「したい」という状態と「したいと思っている」という状態と「したいと思おうとしている」という状態の間に、どういう差があるのかも分からない。だけど、しようと決めていることだけは確かだ。なぜそれではいけないのか。

わたしたちは入籍したら、川のそばに住む予定だ。彼が川が好きだから、そう決めた。VIDEOさんのVJを見ていたら、この間マンションを見に行った時に二人で川を眺めたことを思い出した。

ゆるやかな傾斜になっていた道が平らになった先に大きな橋が伸びていて、その下を、たっぷりとした川が流れていた。
曇り空を無数の白い鳥が飛び、お菓子の缶みたいな屋根の低い船が、水面にゆるゆると白い線を引いていた。橋の真ん中あたりで足を止めると、正面にスカイツリーが見えた。「これ何川?」と彼に訊くと、隅田川だと言う。
「夏は、こっちに隅田川の花火が見えて、こっちに東京湾の花火が見えるよ」
彼は今の家へ引っ越す前、五年ほどこの街に住んでいたことがあるのだった。そしてその最後の一年間、わたしたちは同じ職場で働いていた。そうかここに住んでいたのか、と思った。
中島さん、と呼ばれていた。彼が川の近くに住んでいることも、海の見える街で育ったこともまだ知らなかった。

わたしたちはしばらく川を眺めた。
けんかをした後だったので、彼はまだ言葉少なだったが、ぽつぽつと「4月になったら桜がきれいだよ」「夜、あの橋がライトアップされるんだよ」「朝はたくさん犬が歩いてるよ」と、川のそばの風景について教えてくれた。わたしは満開の桜と、光る橋と、ピンクの花びらを踏みながら歩いてくる適度に肥った柴犬を思い浮かべた。
彼は川べりにあるベンチを指さして、さらに言った。
「気候がいい時期は、仕事帰りにコンビニで弁当買って、あのベンチで川見ながら食べて、それから帰ってたんだよ」
わたしは一人で弁当を食べる彼の姿を想像した。そして、その時の彼と一緒に弁当を食べたかったと思った。

目の前に流れる川は、彼の見ていた川だが、彼の見ていた川ではない。目の前にいる彼も、川を見ていた彼ではない。川はどんな風に流れていたのか、どんな気持ちでそれを見ていたのか、弁当はどこのコンビニで買ったものだったのか、美味しかったのか、わたしは見ることも知ることもできない。だから、知りたい、教えてほしい、と思ったのだ。

相手の中にある、決して知り得ないことに思いを馳せたり、知りたいと思ったりする。それは、愛しているということなんじゃないかとわたしは想像する。共有していない時間を淋しく思うこと、その空白と、空白を含んで今ここまで途切れずに流れてきた時間そのものをいとおしく思うこと。
結婚したいかどうかは、やっぱりよく分からない。彼の全てが好きかと言われると即答はできない。でも、わたしは彼の過ごしてきた時間をもれなく大切に思っているし、そういう特別な相手とは、できるだけ長く仲良く過ごしていきたいと思っている。彼の問いにイエスかノーで答えることはできないけど、とりあえず、今度会ったらこのことを伝えようと思った。

そんな風に、わたしはステージとその向こうの風景を眺めつつ頭の中では全く別のことを考えていた。わたしは良い音楽を聞いている時、いつも関係のないことを考えているような気がする。というか、今ここにないものを想起させたり、遠くにある記憶を刺激する音楽が、単に好きなのだと思う。

渋谷の地面の下には川が流れているんだっけか、と考えながら、地下鉄の駅までの道を歩いた。駅構内へとつながる階段の入り口で、ホームレスのおじさんが地面にあぐらをかいて座り、電卓を叩いていた。表情は長く伸びた髪に隠れて見えなかった。

20160101

元日のO市は、一面真っ白な霧に包まれていて、ヘッドライトをつけても、数メートル先までしか見えなかった。
ハンドルを握る父はスピードを落とし、そろそろそろと駅まで車を走らせていた。自分がどこにいるのかも、きちんと前に進んでいるのかも分からなくて、何だか気味の悪い夢の中にいるようだった。

「時々こういう風になるの。初めてここに来た日もこんな風で、びっくりしたよ」と後部座席の母が言った。
O市は父の家とも母の家とも何の縁もない土地だが、諸々の都合で両親はこの街に住んでいる。二人が移住してもう何年も経つが、未だに地元の人の言葉は聞き取れず、うだるような夏の暑さには、毎年倒れそうになると言う。

何年か前の春だか夏だかに「ここは黄砂が飛んでくるから、洗濯物を外に出せないの」と母が言うのを聞いて、この、本州から離れた小島のすぐ先には地球で最も大きな大陸があること、風というごく身近な自然には、大陸から砂を運んでくるほどの力があることを、わたしは生まれて初めて意識した。
工藤静香の歌の中でしか聞いたことのなかった黄砂が、確かに空を黄色く染めていた。陳腐だが、世界はひとつに繋がっているのだと知った。

実家のリビングの窓からはいつも、でっぷりとした太い煙突と、その先から伸びる白い煙のかたまりが見える。化学系の工場だそうだが、具体的に何を作っているのかは分からない。
化学系の工場たちが建つ前、ここには炭鉱があり、街を大層潤わせたそうだが、余所者のわたしたちには、そのことが信じられない。そんな活気の残滓は、街のどこにもない。
霧に包まれていない時も、もやっとした何かに包まれているような街だと思う。煙突の煙や黄砂のせいで、そんな気がするだけかもしれない。しかしそこがどんな街であれ、親が住む場所を、わたしは故郷と呼ぶ。


新幹線の切符は、母に買ってもらった。
会社の人たちと婚約者に渡すお土産も、新幹線の中で飲む水も、くまモンのかわいい絆創膏も、母に買ってもらった。手製の大きなおにぎりも二つ持たせてもらった。

帰省すると母は何でも「買っちゃるかい?」と言う。
大晦日のスーパーの鮮魚売り場で、母は3000円の刺身盛り合わせと4000円の刺身盛り合わせを前にし、それぞれに何の魚が入っているのか確めもせずに「こっちの高い方でいいしょ?」と言った。
わたしは「食べきれないからこっちがいい」と言い、安い方を手にした。

わたしはこの1年ですっかり食欲がなくなって、15キロくらい痩せた。
腹は空くが、物を食べることを楽しいと思えない。たとえば会社の偉い人とか、そういう特に好意を抱いていない裕福な他人の金で食べるものしか、美味しいと感じることができない。それ以外の食事には大体「もったいない」か「申し訳ない」が入ってきて、美味しいとか美味しくないとかを、正確に感じられない。
時折「楽しい」が入ってくることもあるが、「楽しい」時も、美味しいとか美味しくないとかが分からなくなる。「食べ物の味が良い」ということを純粋に感じられることはあまりないし、運良く感じられても、それはわたしにさほど大きな喜びを運ばない。
わたしに食べ物を与え続けてくれた親に、食べ物というのは自分にとってそういうものだということを、とてもじゃないが、伝えることはできない。もちろん言うつもりもない。

ただ、母の手製の料理を食べると良い気分になるし、美味しいとも思う。自分がその辺の線引きをどうやっているのか、自分でもよく分からない。


両親とは、春に入籍する前にまた会う。両家顔合わせというやつをやるのだ。
近々会う予定が決まっているからか、またね、と手を振って改札をくぐりエスカレーターに乗っても、胸は苦しくならなかった。

いつもは苦しくなる。
本当はもっといい娘になりたかった。そうなってほしかったと思われているのも知っている。でも今から両親の気持ちに応えることは、もうできないと思う。今からサッカー選手になれないのと同じで、もうその分かれ道みたいなところを、自分は通り過ぎてしまったように思う。戻ることは当然できない。可能性みたいなものが毎秒失われている。どんなに些細な選択でも、一つ選ぶと他のすべてが失われる。
そういうことにもっと若いうちに気付くことができる聡明さが欲しかったし、そういう知性を身に付ける為の努力を怠った自分が不甲斐ない。


新幹線に乗って新大阪まで行き、そこから電車を乗り継いで宝塚まで行った。
わたしは方向音痴なので、目的地である宝塚大劇場まで迷いそうだと思い、駅前でタクシーをつかまえると「あんなところ歩いた方が早い」「元日からあんな近いところまで走りたくない」と言われた。慌てて謝って降りようとすると、「もういいよ」と車は乱暴に走り始めた。乗っている間ずっと、わたしは謝り続けていた。車窓の向こうに、夢にまで見た宝塚大劇場が見えた時も、わたしは謝っていた。

タクシーがわたしを放り出して、苛立ちをそのまま音にしたみたいなエンジン音を立てながら走り去り、その姿が完全に見えなくなるまで、わたしは宝塚に来られてうれしい、と思うことができなかった。

2016年もこんな風に過ぎていくのだろうか、と思いながら神聖な場所の土を踏んでいることが、申し訳なくて仕方なかった。宝塚の神様に、何度も謝った。
2016年もこんな風に過ぎていくのだろうか?

20151205

今週末も婚約者が東京へやってきた。
今、わたしの精神の状態が芳しくないので、話し合って、落ち着くまで週末はなるべく彼が様子を見に来ることになったのだ。

彼がやってきたのは11時頃だった。
二人でドラッグストアに行き、銀行に行き、TSUTAYAに行き、西友に行き、セブンイレブンに行って、帰ってきた。買ったものを手分けして、決められた場所にしまった。
そして昼食を摂った。彼はロールパンを焼いてクリームチーズを塗ったものとゆでたまごとコーヒー、わたしはフルーツグラノーラにプレーンヨーグルトをかけたものとゆでたまごと牛乳を食べた。わたしたちは二人ともあまり物を食べない。わたしが皿を片付け、彼が食卓を片付けた。

それからApple Musicのトライアル期間が終わってからめちゃくちゃになってしまったiTunesを直した。彼はその間昼寝をしていた。
2つある窓のうち、1つの窓のカーテンを閉め、中途半端な明るさの部屋でceroのレコードを薄く流していたが、彼は気にとめる様子もなくぐっすりと寝ていた。

40分ほど経ってから彼を起こして、出掛ける準備をした。病院に行かなければいけなかった。
1年弱通っていた病院で気分の良くない対応をされたので、評判のいい病院を探して予約をしていた。先日電車の中で見知らぬ女性とトラブルになってから、外に出るのが怖くなってしまったので、彼に連れて行ってもらうことになっていた。

病院の前で「俺は髪を切ってくるから」と言って、彼は病院のすぐ近くだという美容室へ向かった。彼は3週に1回くらいのペースで髪を切る。でも毎回あまり変わらない。

新しい病院は、前の病院とは比べものにならないほどきちんとしたところだった。待合室は清潔で静かで程よく薄暗かった。
医者の治療方針は、なるべく薬を使わず、認知行動療法とカウンセリングで根本治療を目指すというものだった。薬を飲むのにはもう飽き飽きしていたので、ほっとした。こんなその場しのぎではなくて、何かもっと違う方法があればいいのに、と思っていたところでもあった。

医者は鈴木亮平に似た、若い男性だった。わたしは今の精神状態について話しながら涙ぐんだりする一方で、医者の顔を見るたびに「精力が強そうだな」と思ってしまって、自分は本当に病気なんだろうかと思った。
胃の病気に罹っている人は刺激物を食べられない。わたしは心の病気に罹っているが会社に行ける。映画館にもライヴハウスにも行ける。
ただ生きていることが苦しい。でも、生きていることが苦しいということが病気なのだとしたら、人間はほぼ全員病気ということになってしまう。

毎日、対象のぼんやりとした激しい怒りを感じている。心の中に常に憤怒と憎悪が鎮座している。物心ついてから、怒りを感じなかった日がない。そしてそれを適切に発散したり解消したりできた日もない。殺してやりたい人間が何人もいる。夜、部屋で物を壊すことがある。いつか逮捕されるのではないかと思う。

中島さんは物事の認知の仕方が歪んでいるから、人より怒りを抱きやすい。だからまず歪んだ認知を直しましょう。それでも人は怒りを抱く生き物だから、怒りを抱いた時どのように解消すればよいか、その技術を身に付けましょう。長く苦しい治療になると思います。でもきっと治ります。頑張りましょう。

鈴木亮平似の医者はそう言い、わたしは頷きながら彼の左手の薬指を見た。指輪はなかった。「よし」と思った。何がいいのか。

診察が終わったと連絡すると、婚約者から、俺も髪を切り終わったところだと返事が来た。しばらく待っていると彼が走ってきた。髪型はやはり大して変わっていなかった。
「ねぇ、何かこの髪型変じゃない?」と言われたので「そもそもあんまり変わってないし、変でもないよ」と答えた。彼は「雑に切られた気がする」としきりに前髪を気にしていた。
今度からわたしと同じ美容室に行きなよ、すごくいいところだよ、と言うと、うーんと言いながらもみあげを触っていた。

その後、ルミネで食事をした。店を出るなり彼が「トイレ行ってくる」と言って早足でトイレの方へ消え、しばらく戻ってこなかったので腹の具合でも悪いのだろうかと思いつつ待っていたら、また早足で帰ってきて「この髪型変じゃない?」と言った。わたしは、気になる気持ちは分かるけど別に変ではない、でも気になるならきちんと髪質や要望を理解してそれに合わせた髪型にしてくれるサロンに行った方がいい、わたしの通っているところはそういうところだから今度はそこに行くといい、と同じことをまた言った。
彼は今度は「そうしようかなぁ」と答えた。
「服は気に入らなければ着なければいいけど、髪型は一度決まったらしばらく変えられないから、ある程度金をかけた方がいい。髪は自分の身体の一部で、自分自身の身体に気に入らない部分があることは、些細なことのようでストレスになる。自分の身体を不安や不満のない状態にしておくことは重要なことだと思う」というようなことを言うと、彼は、確かに、と言った。

イルミネーションでキラキラした丸の内仲通りを、東京駅まで歩いた。
きれいだね、きれいだね、と言いながら歩いた。きれいだ、それは間違いなかった。でもきれいなものも、楽しいものも、愛おしいものも、素敵なものも、自分を救ってはくれないのだと思った。自分の心を救えるのは自分しかいない。医者も婚約者も友人も力強いサポーターではあるが、わたしの苦しみを和らげることができるのは、わたししかいない。死ぬまでに治ればラッキーくらいの気持ちでとことん向き合うしかない、というようなことを考えていた。

隣できれいだね、と言っている彼は何を考えていただろうか。わたしはいつもわたしのことばかり考えている。わたしのことだけを考えている。彼がわたしのことを考えている時も、わたしはわたしのことを考えている。他に考えたいことも考えるべきこともないような気がする。

帰りの地下鉄の中、少しだけ眠った。短い夢を見たが、目を開けた時には内容を忘れていた。何だか知らないが眠くて仕方がなかった。
ぼーっとしたまま手を引かれて家へと帰り、化粧も落とさず倒れこむようにすぐ眠った。おやすみ、と彼に言ったかどうか、覚えていない。わたしが眠った後彼は何をして、何を考えていただろうか。

20151130

仕事が終わって地下鉄で病院に向かう途中、Twitter水木しげる先生が亡くなったことを知った。正確に言うと、みんなが水木先生の話をしていたので「亡くなったんだな」と思っただけで、公式な訃報には触れていない。

 

台所で母親が夕食の準備をしている気配を背中で聞きながら、『ゲゲゲの鬼太郎』の再放送を面白いとも面白くないとも思わずただ見ていたこととか、NHKでやっていたドラマ版の『のんのんばあとオレ』は面白くて夢中になって見ていたこととか、正直それくらいしか思い出はない。でも素直に残念だと思った。人が死ぬのは残念なことだ。誰であれいくつであれ、それはそんなに変わらない。

小さい頃洋画を観ていて、お悔やみを伝える場面で「残念だったわね」という字幕が表示されると、妙な気分になった。「sorry」という単語とも、意味合いがうまく結びつかなかった。「残念」っていうのは、たとえばすごく努力したけど思うような結果が得られなかった時とかに使う言葉で、人が死んだ時に使うのにはそぐわないんじゃないか、これは正しい訳なのだろうか? と思っていた。

でもいつからか、人が死ぬのは残念なことだと思うようになった。悲しいと思うより先にそう思うようになった。仕方ないな、でもとても残念だな、と。

 

父方の祖父の葬式で、わたしは少しも悲しいと思わなかった。悲しいと思えるほど、深い付き合いがなかった。というかよりはっきり言うと祖父母とあまりいい関係を築けていなかったので、今、祖父と交わした会話を思い出そうと記憶を掘り返しているけれど、ただの一言も出てこない。

通夜の夜、祖父の遺体のそばで、寿司を食べたことは妙にはっきりと覚えている。

遺体のそばで食べる寿司はどんな味だろうと思ったが、寿司は寿司の味だったし、食欲も普通に湧いた。ネタが渇いていて、シャリがうまくまとまっていなくて、味音痴の自分にも、大した寿司ではないことが分かった。寿司を食べながら祖父の顔を見ると、ぬらりひょんに似ていた。生きている時から似ていたが、死んだことでより一層似たな、と思った。不謹慎だと思ったが、思ってしまったものは仕方ない。

 

焼かれた祖父の骨には、ところどころ蛍光マーカーみたいな鮮やかな色がついていた。「これ、何の色ですか」と親戚の誰かが訊いて、「飲んでいた薬のせいではないか」というようなことを火葬場の人が言った。

骨壺に骨を納める段になって、それまでぼんやりしていた祖母が突然取り乱して驚いた。斎場から火葬場に向かうバスの中で酔ってしまい、頭が痛くて早く帰りたかった。遅れてやってきた兄は、制服を着崩していて、ズボンからパンツが半分くらい出ていた。

 

祖父はいわゆる成金で、大きな家に住んでいた。庭は純和風に整えられ、池にはでっぷりとした錦鯉が泳いでいた。羽振りが良く面倒見がよかったようで、わたしが幼い頃は素性のよく分からない取り巻きのような人たちが何人かいて、その謎のおじさんたちにお嬢さんお嬢さん、とちやほやされた時期もあったが、祖父が病床についたのを機に、そうした人たちはみんな離れていったようだった。

 

そのうちのひとりが、葬式に来ていた。

後日そう言うと、どういうわけか父も親戚も誰もその人の姿を見ていないと言い、「人違いじゃないか」と言われたが、あれは確かにあの人だった。かつてどう見ても堅気らしくない時代錯誤な三つボタンのスーツに身を包み、高級車を乗り回していたその人は、古ぼけて汚れたジャンパーを羽織り、作業ズボンのようなものを履いて、片足を引きずっていた。老いてやつれた面差しに、昔の名残りが少しだけ見えた。その人は棺の中の祖父の顔を、随分長いこと見つめていた。

 

人が死ぬと、誰かが死んだ時のことを思い出す。

わたしは祖父のことをよく知らなかったし今も知らないが、つかの間の夢のようないい時代を少し共有しただけであろう素性のよく分からない人に、死に顔をじっと見つめられるような人だったのだ、と思ったことを、今、何年かぶりに思い出している。

 

あの人のあのまなざしは何だったのだろうと思う。悲しみか、懐かしさか、あるいは恨みか。

あの人も、ただ残念だと思っていたのかもしれない。年齢不詳な人だったが、今も生きているだろうか? もし、もう死んでいたら、葬式はちゃんと出してもらえたろうか。そこに死に顔をじっと見つめる誰かはいただろうか。

人が死ぬと自分が死ぬ時のことも考える。わたしが死んだら葬式は行われるだろうか。死に顔をじっと見つめる人はいるだろうか。

 

婚約者は「考えても仕方のないことはなるべく考えないようにしなよ」とよく言う。

でもわたしは考えても仕方のないことを考えずにはいられない。意味も脈絡もなく、正確かどうかも分からない、思い出しても仕方のない記憶の断片を継ぎ合わせたのが今のわたしだと思うからだ。

あの人がもし死んでいたら、悲しくはないが、残念だと思う。

でも顔はうまく思い出せなかった。スーツと黒塗りの高級車しか、もう思い出せない。