母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20150917

午前中、同期の女の子と一緒に研修を受けて、流れでそのまま一緒に昼食を摂ることになった。

わたしたちはざっくり言えば同期ということになるが、入社の時期も少しずれているし部署も違うので、それまで互いの顔と名前も一致していない状態だった。

外に出ますか? 社食にしますか? と訊くと、彼女は「わたしお弁当なんで、社食で一緒に食べましょう」と答えた。

 

彼女が冷蔵庫へ弁当を取りに行っている間に、急いで社食で注文を済ませ、自分の分のほうじ茶と水を注いだ。ほうじ茶は食事の最中に飲む用で、水は食後の薬を飲む用だ。

するとちょうどそこに彼女が現れ、二つのコップを見て「わー、ありがとうございます!」と言ってわたしの手からさっとそれらを取り、眺めのいい席へとすたすたと歩いて行った。別に薬なんて何で飲んだっていい。素直でいい子だ、と思った。

わたしはカジュアルだが洗練された、かたちの良い服に身を包んだ彼女の後姿を見た。

お尻が薄く、脚がすらりと長く、ただ肉が少ないというのでなく骨格から細いという感じで、平成生まれの都会育ちの子の体だ、と思った。

 

向かい合って座り、いつの間にか彼女のものになったほうじ茶のコップを見て、そっちほうじ茶だけど苦手だったりしませんか? と訊くと、彼女は「わたし何でも大丈夫なんで!」と元気よく答えた。

彼女のお弁当はおにぎり二つに大根を煮染めたもの、野菜炒め、トマト、からあげという、豪華ではないがきちんとしたものだった。

実家暮らしだろうな、と思った。そしてきっと、周りの人たちに大事にされて育ったんだろう。素直で邪気がなく、一緒にいるだけで自然と好意が胸に湧き上がってくるタイプの子だった。

 

立ち入ったことだとは思いつつ、「お弁当、毎日自分で作ってるんですか? 」と訊いてみると、彼女からは、高校の頃からずっと自分で作っている、今は一人暮らしだが弁当作りには慣れてしまっているのでそこまで苦ではない、というような意外な返答があった。

 

新卒で入った会社の同期の女の子たちは、全員実家から会社に通っていて、彼女たちのお弁当は、全て彼女たちの母親によってつくられたものだった。わたしは一人暮らしだったので栄養バランスも彩りも何もない、適当な弁当を自分で作っていた。彼女たちの弁当は、どれも宝石箱のようにきらめいて見えた。

 

ボロボロになって帰宅して、休む間もなく弁当箱を洗い、夕食を作り、食べ、また皿を洗い、翌日の弁当の準備をしなくてもよいということが、とてもうらやましかった。でもどこかで「いい歳して親に弁当をつくってもらうなんて」と彼女たちを見下してもいた。

「これ入れないでって言ったのに」と当然のようにおかずに文句を言ったり、「疲れてるのに風呂掃除しろって言われて昨日お母さんとけんかした」と愚痴をこぼしたり、「家にお金? そんなの入れてないよ~」と笑い合ったりする彼女たちと、わたしは次第に距離をとるようになった。

 

彼女たちは何も悪くなかった。そして東京を離れ地方で働くことを選んだのも、一人暮らしをすると決めたのも、他でもないわたし自身だった。

でも、経済観念も仕事や生活に対する切迫度もまるで違う彼女たちを、そういう生き方もあるんだとか、どう生きたって自由なんだとか、苦労の種類の違いがあるだけで一人暮らしと実家暮らしに優劣はないんだとか、そういう風に考える余裕は当時のわたしにはなかった。わたしは昼食を一人で摂るようになり、同期の誰にも言わずに会社を辞めた。

退社後、心配しているのか噂話のネタにしようとしているのか分からないメールが何通か届いたが、全部無視して受信拒否設定をした。そしてわたしは一人で東京に戻った。

 

 

彼女に訊かれたので、うどんをすすりながら、これまでの職歴をかいつまんで話した。すると彼女はぱっと表情を輝かせて、「わたしとほぼおんなじです!」と言った。

最初の会社はホワイトの大企業だったが仕事の内容がキツくパワハラが横行していて続けられなかった、次の会社は中小企業で仕事は楽だが体質がいい加減でややブラックだったと、つらいエピソードを笑いに変えながら、彼女は大きな身振り手振りつきであけすけに自分の経歴を話してくれた。

苦労をしてきた子なのだと思った。そして、苦労をしていない人なんていない、という当然のことを思い出し、自分の安易な先入観を、心底恥ずかしく思った。

 

「本当だ、似てますね」

「ね、何かうれしい」

彼女はわたしの分だったはずのほうじ茶をぐいっと飲み干して笑った。

 

思い切って年齢を訊ねると、たった2つしか違わなかった。

驚いて、絶対20代前半だと思ったよ、と言うと、彼女は恥ずかしそうに、童顔だからいつも若く見られるんです、と答えた。

「わたしは老け顔だから、いつも実年齢より上に見られるよ」と言うと、老け顔だからじゃなくて落ち着いてるからですよ、と言う。

「いや、落ち着いてるんじゃなくて若者らしい元気がないだけだよ」

そう言うと、彼女は何がツボに入ったのか大笑いして、何言ってるんですか、元気ありますよ! と言った。何てかわいい子だろうと思った。

 

翌日も彼女と一緒に昼食を摂った。話は盛り上がり、気付くと昼休みが終わる直前で、二人で駆け足でオフィスに戻った。

 

わたしは長いこと、素直な人や邪気のない人を、羨み妬み、憎んできた。

もし自分がこんなにもひねくれていなかったら、もっと自分の感情に素直になれたら、もしかしたら生きるのはもっと楽だったかもしれない。そう考えては、そういう人たちを、ずるいと思い込んできた。

素直だとか邪気がないとかそういう性質は、ほとんど先天的なもので、努力で得られる種類のものではなく、自分には到底手に入らないと思ってきた。今もそう思う。

でも、手に入らないものを欲しがって苦しんで自分を傷つけるような気力というか情熱は、いつからかなくなってしまった。それがいいことなのか悪いことなのかは分からない。何かから逃げているのかもしれないし、楽に何かを諦めただけかもしれない。

今はただ、そういう人と接すると、「いいな」「素敵だな」と思う。

わたしにはできない率直だけど嫌味のない言い回しを耳にすると、感動したりもする。いつかどこかで使ってみたいと、胸の奥の方の引き出しにそっとしまったりする。多分使う機会はないけれど、もらったこと自体のうれしさはずっと続く贈り物のように、大切にしまう。

同期の彼女は、これからもそういう言葉をたくさん聞かせてくれるかもしれないし、もしかしたら耳を塞いで早足で離れたくなるようなことを言い出すかもしれない。

でもそれはどっちでもいい。彼女の自由だ。人は自分の心を自由にさせている時が、たとえ醜くとも、いちばん魅力的だとわたしは思う。

 

とりあえず今は、彼女がもしもわたしにそういう言葉を吐くようになっても、簡単に失望したりしたくないと思っている。一旦は耳を傾けて、彼女の心を知ろうとする勇気を持ってみたいと思う。それが今のわたしの素直な気持ちだ。