母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20160101

元日のO市は、一面真っ白な霧に包まれていて、ヘッドライトをつけても、数メートル先までしか見えなかった。
ハンドルを握る父はスピードを落とし、そろそろそろと駅まで車を走らせていた。自分がどこにいるのかも、きちんと前に進んでいるのかも分からなくて、何だか気味の悪い夢の中にいるようだった。

「時々こういう風になるの。初めてここに来た日もこんな風で、びっくりしたよ」と後部座席の母が言った。
O市は父の家とも母の家とも何の縁もない土地だが、諸々の都合で両親はこの街に住んでいる。二人が移住してもう何年も経つが、未だに地元の人の言葉は聞き取れず、うだるような夏の暑さには、毎年倒れそうになると言う。

何年か前の春だか夏だかに「ここは黄砂が飛んでくるから、洗濯物を外に出せないの」と母が言うのを聞いて、この、本州から離れた小島のすぐ先には地球で最も大きな大陸があること、風というごく身近な自然には、大陸から砂を運んでくるほどの力があることを、わたしは生まれて初めて意識した。
工藤静香の歌の中でしか聞いたことのなかった黄砂が、確かに空を黄色く染めていた。陳腐だが、世界はひとつに繋がっているのだと知った。

実家のリビングの窓からはいつも、でっぷりとした太い煙突と、その先から伸びる白い煙のかたまりが見える。化学系の工場だそうだが、具体的に何を作っているのかは分からない。
化学系の工場たちが建つ前、ここには炭鉱があり、街を大層潤わせたそうだが、余所者のわたしたちには、そのことが信じられない。そんな活気の残滓は、街のどこにもない。
霧に包まれていない時も、もやっとした何かに包まれているような街だと思う。煙突の煙や黄砂のせいで、そんな気がするだけかもしれない。しかしそこがどんな街であれ、親が住む場所を、わたしは故郷と呼ぶ。


新幹線の切符は、母に買ってもらった。
会社の人たちと婚約者に渡すお土産も、新幹線の中で飲む水も、くまモンのかわいい絆創膏も、母に買ってもらった。手製の大きなおにぎりも二つ持たせてもらった。

帰省すると母は何でも「買っちゃるかい?」と言う。
大晦日のスーパーの鮮魚売り場で、母は3000円の刺身盛り合わせと4000円の刺身盛り合わせを前にし、それぞれに何の魚が入っているのか確めもせずに「こっちの高い方でいいしょ?」と言った。
わたしは「食べきれないからこっちがいい」と言い、安い方を手にした。

わたしはこの1年ですっかり食欲がなくなって、15キロくらい痩せた。
腹は空くが、物を食べることを楽しいと思えない。たとえば会社の偉い人とか、そういう特に好意を抱いていない裕福な他人の金で食べるものしか、美味しいと感じることができない。それ以外の食事には大体「もったいない」か「申し訳ない」が入ってきて、美味しいとか美味しくないとかを、正確に感じられない。
時折「楽しい」が入ってくることもあるが、「楽しい」時も、美味しいとか美味しくないとかが分からなくなる。「食べ物の味が良い」ということを純粋に感じられることはあまりないし、運良く感じられても、それはわたしにさほど大きな喜びを運ばない。
わたしに食べ物を与え続けてくれた親に、食べ物というのは自分にとってそういうものだということを、とてもじゃないが、伝えることはできない。もちろん言うつもりもない。

ただ、母の手製の料理を食べると良い気分になるし、美味しいとも思う。自分がその辺の線引きをどうやっているのか、自分でもよく分からない。


両親とは、春に入籍する前にまた会う。両家顔合わせというやつをやるのだ。
近々会う予定が決まっているからか、またね、と手を振って改札をくぐりエスカレーターに乗っても、胸は苦しくならなかった。

いつもは苦しくなる。
本当はもっといい娘になりたかった。そうなってほしかったと思われているのも知っている。でも今から両親の気持ちに応えることは、もうできないと思う。今からサッカー選手になれないのと同じで、もうその分かれ道みたいなところを、自分は通り過ぎてしまったように思う。戻ることは当然できない。可能性みたいなものが毎秒失われている。どんなに些細な選択でも、一つ選ぶと他のすべてが失われる。
そういうことにもっと若いうちに気付くことができる聡明さが欲しかったし、そういう知性を身に付ける為の努力を怠った自分が不甲斐ない。


新幹線に乗って新大阪まで行き、そこから電車を乗り継いで宝塚まで行った。
わたしは方向音痴なので、目的地である宝塚大劇場まで迷いそうだと思い、駅前でタクシーをつかまえると「あんなところ歩いた方が早い」「元日からあんな近いところまで走りたくない」と言われた。慌てて謝って降りようとすると、「もういいよ」と車は乱暴に走り始めた。乗っている間ずっと、わたしは謝り続けていた。車窓の向こうに、夢にまで見た宝塚大劇場が見えた時も、わたしは謝っていた。

タクシーがわたしを放り出して、苛立ちをそのまま音にしたみたいなエンジン音を立てながら走り去り、その姿が完全に見えなくなるまで、わたしは宝塚に来られてうれしい、と思うことができなかった。

2016年もこんな風に過ぎていくのだろうか、と思いながら神聖な場所の土を踏んでいることが、申し訳なくて仕方なかった。宝塚の神様に、何度も謝った。
2016年もこんな風に過ぎていくのだろうか?