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母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

光の子ども

『光の子ども』

(フリーペーパー「好物」vol.39 切断号掲載)

 

「赤ちゃんができたんです」

兄嫁は照れながらそう言うと、細い指で口元を覆って、隣に座る兄を見た。兄は大きな顔いっぱいに笑みを浮かべ、兄嫁の肩を優しく二度叩いた。母は、胸の前で小さく拍手をしながら、目玉を異様にきらきら光らせていた。それは涙をためているせいだ、と正子が気付くまで、少し時間がかかった。

 

 教員だった兄が、元教え子と結婚したのは、一昨年の春のことだった。その結婚を巡る周囲とのいざこざの中で、兄は長年勤めた私立高校を辞め、兄嫁は両親と絶縁することとなった。正子と栄子は、元々十以上歳の離れた兄とは疎遠で、まるできょうだいは自分たち二人だけであるかのように暮らしていたので、その大げさでありきたりな騒動について母から電話で聞かされるたびに、不思議な心地がした。

 なぜわたしたちに、そんな話をするのだろう?

 

「そうなの、知らなかったわ」

 赤ちゃんができた、というおそらく幸福な言葉の余韻に皆が浸る中、声を出したのは、栄子だった。

「当たり前でしょう、今初めて言ったんだから」

 母は眉を寄せたが、今は喜びに勝る感情をうまく抱けないようで、眉間の皺はすぐに消えた。

「そうね、おめでとう、よかったわね」

 そう言ってにっこりして、栄子は食べかけだったチーズケーキの残りに取り掛かった。

「これ、少し洋酒がききすぎてない?」

 

 食後、二人は、秋の色に染まり始めた庭を歩いた。

 萩が枝をたっぷりとしだれさせ、可憐な紫色の花をつけている横で、チドリノキの葉は橙色に色を変え始めていた。葉が午後の陽に透けて、細かい葉脈をはっきりと浮かび上がらせている。二人はそれを、延々目でなぞった。

 幼い頃、秋の終わりがくる前はいつも、この木の中から自分の葉を一枚決め、その葉が先に落ちた方が負け、という遊びに興じていたのだが、正子も栄子も、もうそれを覚えていない。死んだ父に教えられたチドリノキというその木の名前も、きっと思い出せないだろう。

 正子と栄子は今や、この家に対する一切の愛着を失っていた。それは家を出て二人で暮らす中で次第に弱まっていったわけではなく、ある日突然みんな消え失せてしまったのだ。父が死んだことや、兄が娘ほど歳の離れた相手と結婚したことは、おそらく理由ではなかった。むしろ、二人が家に対する愛をすべて失ってしまったことが、どこかで父の死や兄の結婚を呼んだのかもしれなかった。

 二人は、地面に埋めこまれた、青銅色の円い石に並んで腰をおろし、目の前にある小さな池を見た。サルスベリソメイヨシノも赤く色づき、今は何もいない池にそれがうつって、水が燃えているようだった。

「この池の鯉を、野良猫がくわえて持っていったことがあったの、覚えてる?」

「覚えてる」

「あれは怖かったわ」

「あら、栄子、それ直接見たんだった?」

「見たわ」

「わたしが見て、あなたに話したんじゃなかった?」

「逆よ、わたしが見て、姉さんに話したのよ」

「そうだった? 本当に?」

「どっちでも同じことよ」

 栄子の言う通りだった。その二つの間に、一体どんな差があるというのだろう?

「そうね、同じだわ」

 

 家の中から、二人を呼ぶ声がした。それが母の声なのか兄嫁の声なのか兄の声なのか、正子と栄子には分からない。彼らがどんな声を持っているかなんて、全く意識したことがなかったのだ。

「ねぇ、この辺りにイチョウがあれば、もっとよかったと思わない?」

「そうね、そう思うわ」

 

 

 タクシーが信号で止まる。

 それは、二人が実家の前でそのタクシーに乗り込んでから、初めての停車だった。実に四十三分ものあいだ、タクシーは一度も信号につかまることなく国道を走り続けていたのだが、正子も栄子も、運転手も、誰ひとりそのことには気付いていなかった。

 正子は、運転手の後頭部、名前の札、メーター、痩せ薬と豊胸手術のチラシ、シートの柄、そこへ被せられたレース、車内のものをあらかた眺めつくし、最後に隣に座る栄子を見た。栄子はほとんどシートに座った瞬間から眠り始め、依然として、同じ姿勢でこんこんと眠っていた。正子は手にしたままだった痩せ薬のチラシをもう一度開きかけてやめ、窓の外へ目をやった。

 

 歩道を挟んだ先に小さな洋品店があり、そのウィンドウの中に、子どものマネキンが、何も着せられずに立っていた。店には人気がなく、営業しているのかは分からない。ウィンドウは排気ガスや砂埃で汚れてひどくくすんでいたが、子どもの裸の白い体は、不思議に明るく輝いていた。まるで、道端で偶然光を拾って飲み込んだら、それがそのまま胃に残って、ずっと輝くことをやめないでいるような、そんな明るさだった。

 子どもには、爪も毛穴も、乳首も性器もなかった。性別は分からず、もっと言えば本当に子どもなのかも分からなかった。その何もまとわない、あまりにもなめらかな白いからだを見ているうち、正子は、五百年後の未来人の姿を思い出した。

 思い出したと言ってももちろん実際に未来人を見たわけではない。かつて子ども向けのSF雑誌か何かで見たのかもしれないし、幼い正子が空想の中で作り出したのだったかもしれないが、未来人の姿は、今気まぐれに思いついたものではなく、遠い昔からずっと正子の頭の中に存在し続けていたものに違いなかった。その記憶には時を経たにおいと重みがあり、古い箱から取り出されてきた手触りが、確かにあった。そしてそれがすっかり取り出された今では、正子は不思議でならなかった。

 なぜわたしは未来人のことを、今の今まですっかり忘れていられたのだろう? 人間が五百年かけてざらざらやでこぼこをひとつずつ失くし、進化の果てにすべらかな光体になることを?

 

「手首がない」

 栄子が突然声を出し、正子は驚いて振り返る。栄子はいつの間にか目を覚まし、正子に肩を寄せて裸の子どもを見つめていた。

 子どもに視線を戻すと、手首はちゃんとついていた。

「あるじゃない」

「違う、左、見て」

 栄子の指がさす先を追うと確かに、子どもには、左手首から先がなかった。それはずっとなかったのだろうか? 今、なくなったのではなく? 確実に視界に入り続けていたはずなのに、正子は一度も左手首がないことに気が付かなかった。

「全然気付かなかった」

「わたしも」

 首から流れる美しい曲線は、そこがあらかじめ定められた終着点であるかのように、手首の手前で止まっていた。

 正子は再び、頭の中にある未来人の姿かたちに、意識を集めようとした。しかしそれはすでに、取り出されたばかりの鮮やかさを失い、記憶の折り重なるそのはざまへと、後退を始めていた。目が脳に映し出すマネキンの像と、未来人の記憶は、もうほとんど区別がつかなくなってしまった。

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