読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

渋谷のハンズのエロい女

短編

渋谷のハンズのエロい女

(フリーペーパー「好物」vol.43 スポーティ号掲載)

                                  

「渋谷のハンズの水筒売り場の担当の女がさ、めちゃくちゃエロいんだよ。今度見に行ってよ、いつもいるから」

 と、みっちゃんが言う、隣のテーブルの三十代半ばくらいのカップルの、男の方が顔をしかめている。客はわたしたちの他にはそのカップルだけだが、狭い店の中には、暇そうにした店員がなぜか四人も、それぞれの持ち場らしき場所に突っ立っていた。みっちゃんの声はよく響くので、わたしはいつも、そこにいる全員でみっちゃんの話を聞いているような気になる。

「興味ないとか言うなよお前、あれは本当、結構すごいよ。何だろ、エプロン? あのダサいエプロンのせいかな?」

 みっちゃんは高三の春と夏に甲子園に行き、その後短い間だがプロの選手としてもまぁまぁ活躍した。今は水筒やポットをつくる会社で営業をやっていて、本人は野球やってれば今頃、とよく言うが、地元の友人たちの中では多分いちばん稼いでいる。

「あぁ確かに、だったら全員エロくないとおかしいもんな。や、おっぱいは別にでかくないんだよね」

 みっちゃんはプロ野球選手だった頃に一度結婚して、二年ほどで離婚している。その翌年に元奥さんは息子を連れて歯科医と再婚したが、息子には今も毎月必ず会っているらしい。

「水筒のかたちは別にエロくないだろ! バカだなぁお前、そういうことじゃないだろ」

 息子は入ったばかりの小学校に、ほとんど通えていないらしい。たまに保健室には行くには行くが、たいてい昼には帰ってしまう。少し前に、保健の先生に遠回しに父親のサインをねだられてから、保健室にも行きたくなくなった。

「違う違う、ちょっとブスなほうが逆にエロいとかじゃなくて。何て言えばいいのかなぁ」

 息子は去年の夏、新しい父親に一度ぶたれたことがある。その拍子に玄関の靴箱の取っ手に頭をぶつけ、少しだが血を流し、以来、母親と新しい父親は一度もセックスしていない。なぜぶったのかぶたれたのか、二人とも、何も言わないままだ。

「ていうかおれ、明日もハンズ行くんだよね。どうしよう、何か変な気分になってきたわ」

 野球をやめたのは、本当はゴルフ場でカートを運転している時に事故を起こしてけがをしたからだ。右膝の傷は今も時折痛む。眠れないこともある。一生走ることはできない。

「いや、さすがにそこまではないよ、やっぱ仕事だしそれは。社長にすげえ恩もあるし」

 息子は眠れない夜に、よく行く広尾のレストランの厨房が爆発して真っ赤な炎がテーブルのすぐそこまで迫ってくるところや、マンションを出たそこの角から突然現れた頭の三つある巨大な黒い犬が、猛スピードで追ってくるところを想像する。走ることのできない父親は、毎回必ず死ぬ。

「まぁでもとにかく見に行けって。お前、渋谷通り道じゃん。あれは自分で見ないと分かんないよ。おれだってよく分かんないんだから」

 みっちゃんは空になったジョッキを高々と掲げ、すいませーん、とバカでかい声で叫ぶ。返事が聞こえた気がしたが、誰かが来る様子はなかった。隣のテーブルのカップルはいなくなっている。みっちゃんは太い腕を上げっぱなしにして、声のした方をまっすぐ見たまま、絶対見てこいよ、な、頼むよ、と念を押した。