母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20150829-30

beipanaさんのデビュー7inch『7th voyage』のリリースパーティーが、ceroの高城さんが阿佐ヶ谷でやっているバー、Rojiで行われたので遊びに行った。

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とても気持ちの良い夜だった。

イベントは大盛況で店内は終始混み合っていたが、皆自然に互いを気遣い合っていて、あちこちで楽しげな会話が行き交い、笑い声が絶えなかった。良い音楽と、祝福の気持ちで繋がれ合うと、人はこんなにも良い時間と空間を生み出すことができるのか、と思い、泣きそうになった。

 

わたしもたくさんの人と話をした。久しぶりにお会いする方も、初めてお会いする方もいたが、不思議とあまり緊張しなかった。むしろとても楽しかった。

帰りの電車の中、「いろんな人とたくさん話ができて楽しかったな」と思っている自分に気付き、はっとした。わたしは物心ついてからつい最近まで、自分は人と話をするのが苦手だし嫌いだ、と思ってきたからだった。

 

小さい頃、わたしはみんなが遊んでいるのをその輪の外から眺めるのが好きだったのだが、そうしていると決まって先生に「とう子ちゃんも『入れて』って言おうね」とか「みんなと一緒に遊びなさい」というようなことを言われた。しかしわたしは輪の外にいたいと主張し、先生の言葉を拒んだ。

わたしはみんなと楽しく遊ぶより、みんなが楽しく遊んでいるところを見るのが好きだったのだ。どうしてみんなが楽しい気分になっているのかを想像すると、それだけで楽しい気分になることができた。

癇癪持ちのあの子が今日は機嫌よく笑っているのは、朝ご飯で好きなものが出たからかもしれない、ゆうべ良い夢を見たせいかもしれない、お母さんにいつもより優しい「いってらっしゃい」をもらったせいかもしれない、と考えると、胸が幸福で満たされた。それで十分満足していた。

大人たちは次第にわたしの気質を理解し、放任するようになっていった。あるいはあれはただの諦めだったのかもしれないが、いずれにせよわたしは、人の輪の当事者でなく傍観者でありたいという思いを、ある程度容認されながら育つことができた。

 

それが容認されなくなったのは社会に出てからだった。

好きでもない人間のつまらない話に笑い、行きたくもない飲み会に行き、下世話な噂話や悪口の言い合いに参加し、ころころ変わる上司の機嫌に合わせておべっかを使うことを強いられた。わたしが新卒で入社したのは、そうしなければ仕事に直接的な支障が出て不利益を被るような、閉鎖的で古い体質の組織だった。

はじめこそ表面上うまく取り繕うことができていたが、次第に綻びが出始め、わたしは上司に嫌われ、社内で完全に浮き、仕事もうまく運ばなくなった。

仕事は遊びとは違う、社内で良好な人間関係を築くことは会社員としての義務だ、もう輪の外にいたいなんていうことは許されない、ということを頭では理解していたが、心と体はそれを激しく拒絶していた。

 

何とかその会社を辞めた後、色々な仕事をしたりしなかったりしたが、転職をする度に、組織のしがらみから距離をとりやすい非正規雇用で、かつ人との関わりがなるべく少なくて済む職場を選ぼうとしてきた。

雇用形態のおかげで社内の人間関係の煩わしさからはある程度逃れることができたが、最初の仕事が人と話し、難しい交渉や説得をする仕事だったせいで、どこへ行っても人と深く話し合う仕事を振られる羽目になった。

先日まで勤めていた会社も、単純なデスクワークだと聞いて入社したが、次第に営業や顧客との難しい交渉や新人教育や研修講師など、人と真正面から向き合う仕事ばかり担当させられるようになり、心労で入社してからの数年で15キロも痩せた。

 

そんな自分が諸々の理由から今年の六月に転職することを決め、次はどういう仕事をしようかと考えた時、真っ先に「人と関わる仕事がしたい」と思ったのには、心底驚いた。が、不思議とどこか安堵している自分もいた。

 

ある時期から、自分の中にある思いに気付いてはいたが、そんなはずはないとそれを否定し続けていた。しかしとうとう、それを認める日が来たのだった。

自分は人が好きで、人と話をするのが好きで、人と一緒に何かをすることが好きだ。

生まれ育ちも考え方も、何もかも違う他人と真っ向から誠実に言葉を交わし、分かり合えず苦労し傷つき、それでも諦めずにいるうちに、時々ほんの一瞬だけ訪れる、かすかに心が重なり合う瞬間が、自分の心を最も激しく震わせるのだということに、そしてその奇跡のような震えこそを自分が求めているということに、わたしは気付いてしまった。

働くことが大嫌いなわたしを働かせ続けてきた最も強い動機は実のところ金ではなく、あの、またたいてすぐに消える光のように儚くも美しい、「他人と同じ気持ちを共有できた」「他人の気持ちを理解することができた」という魔法のような瞬間だったのだ。

 

小さい頃、みんなが楽しく遊んでいるところを見るのが好きだったのは、みんながどうして楽しい気持ちになれるのかを知りたかったからだった。その感情の手触りや温度がどんなものなのかを知りたかった。でも直接訊くのは苦手だったので、それよりも楽な想像を選択していただけだった。

社会に出て、その選択の自由をなくし、苦痛に耐えたり逃げたり乗り越えたりしているうちに、ようやくわたしはずっと自分が他人と分かり合いたい、他人の抱いている気持ちを知りたいと思い続けてきたことを知り、それが一人でいるのが好きだという気質と矛盾しないということを受け入れられるようになった。

 

働くことにはつらさが伴う。どんなに仕事が好きな人でも例外ではない。つらさの程度は比較できず、種類の違いがあるだけだ。皆等しく苦しんでいて、わたしもその一人だ。

皆が苦しみを抱えながら働いているのなら、できる限りそのつらさを軽くしたり、つらさの原因を解消したりする為に働きたいと思った。そしてそうできる仕組みをつくったり、既にあるならばそれが適切に運用されるようにする仕事に就こうと思った。

そして運よく、わたしは明日からそうした仕事を始めることとなる。

 

beipanaさんのリリースパーティーで、「転職おめでとうございます」とたくさんの方に祝福のお言葉をいただいた。とてもうれしかった。

わたしは新しい場でもまた必ず苦しむし、仕事行きたくねえとかだりいとかつぶやくし、きっと何キロか痩せるだろう。でも今、そのことは全く怖くない。

他人と誠実に言葉を交わし、分かり合うことを諦めない限り、本当にごくたまにだが幸福だけが完全に心を満たす、奇跡のような瞬間が訪れることと、その一瞬さえあれば自分は生き続けることができることを、わたしはもう知ったからだ。

あの夜、パーティーの場ではそんな瞬間が山ほど訪れた。わたしの発する言葉は決して面白くも流麗でもなかったが、他人と心の通じ合った瞬間のあの光は、何度もわたしの胸の中でまたたいた。体が熱くなった。生きていてよかったと思った。

 

翌日、彼氏と一緒に近所の霊園を散歩した。以前親友と散歩したのと同じ場所だ。

サトウハチロー氏の墓に「ふたりで見ると、すべてのものは美しく見える」という言葉が彫られていた。わたしが同じことを言おうとしたらきっと「他人と見ると美しく見えるものがあることも、なくはない」となるだろうと思った。

 

霊園を出る時彼氏に、以前親友に訊いたのと同じ「何でも好きな言葉をお墓に彫れるとしたら、何て彫る?」という質問をした。彼は迷う様子もなく「自由」と即答した。

それはわたしが親友と霊園を訪れた日からずっと考え続け、辿り着いた言葉と全く同じだった。大丈夫だ、生きていける、と思った。