母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20160723-24

土曜に友達と会った。

本当は7月の頭に会うはずが友達が風邪をひき、中旬に延ばしたが今度はわたしが体調を崩し、延び延びになっていたのが、やっと実現したのだった。

 

パンケーキを食べながら散々話して、コーヒー屋に場所を移すまでの間、友達が映画『FAKE』の話をしてくれた。ゴーストライター疑惑で話題になったあの人に密着した、ドキュメンタリー映画だ。

 

思わず笑ってしまったシーンなんかをいくつか教えてくれ、二人してゲラゲラと笑ったのだが、笑いが収まった頃に、友達がぽつりと、「でもやっぱり、本当に聞こえてるか聞こえてないか、分からないよね」と言う。

確かにそうだ、と自分事のように思ったのは、わたしが最近眼鏡を買ったからことと関係がある。

 

すごく精密な検眼をしてくれる眼鏡屋さんで、そこで初めて自分の目のつくりが複雑だということが判明し、それに合わせた眼鏡をつくってもらった。

出来上がった日、それを掛けて、眼鏡屋さんの店内をぐるりと見渡した時の驚きは忘れられない。世界が三次元だということに初めて気付いたみたいに、物の立体感が昨日とはまるで違って見えた。物をかたちづくる線も、一本一本くっきりときれいに見えた。世界はこんな風にできていたのか、こんな風にできていたのに、わたしにはこんな風に見えていなかったのか、と思うと、ショックだった。自分には見落としたものや、間違って見ていたものが数え切れないほどある。なぜもっと早くきちんとした眼鏡屋さんに出会えなかったのか、と悔しくて泣けてしまった。

 

驚きと悔しさがひと段落すると、ふつふつと疑問が湧き上がってきた。そもそもみんな違ったように物を見ているのに、正しい見え方とか間違った見え方とか、そんなのものはないんじゃないだろうか。世界がどうできているとか、分からないんじゃないか。これの正しい色やかたちはこうだとか、そんなこと誰に分かるのだろう? セブンイレブンの看板のオレンジと緑はみんな違う濃さで見えているのかもしれない、そもそもオレンジと緑じゃないのかも、と考えた。小学生でも考えそうな、恥ずかしいほど幼稚な疑問なのだけど。

 

検査の話に戻るけど、丸のあいている方を答える目の検査で、見えるか見えないかのサイズになってくると、わたしはいつもどうすべきか迷う。見えるような気もする、左のような下のような気もする、でも全然見えないような気もする。で、適当に答える、ということが多いのだけど、その返答に基づいてあなたの視力はこれですということが数値で出されてしまう。見えているかどうか、わたしにもよく分からないのに、右目の視力が0.2ということになる。

 

話題のあの人は、聞こえているとも聞こえていないとも検査結果が出ていて、会見で、手話の通訳の前に返答して笑われたりもしていた。本人も聞こえているかいないか、というかそもそも聞こえるってどういう状態までを指すのか分かっていない、ということは全然あり得て、実のところは、誰にも分からない。

見るとか聞くとか感じるとかいうことは、それくらい不確かで、かつみんなそれぞれ違っているから、全然わけが分からないことで、誰にも何も言えない。

聞こえる、と、聞こえない、の間には、グラデーションがある、というような言い方をする人もいるけど、そこにあるのはグラデーションなんていうきれいなものではないと思う。もっと、混沌としているものなのではないか。グラデーションというより、マーブル模様のような。

 

そんなことを考えた翌日、夫と夫の上司の家族とキャンプ場に行った。ご飯を食べて片付けが終わった後、二人で遊んできて、と言われ、芝生の広場や釣り堀やアスレチック場をつなぐ道をぷらぷら歩いていると、ポニーに乗れる場所があった。わたしは馬が大好きなので、乗りたい乗りたい! とひと通りはしゃぎ、乗ることにした。

 

夫に携帯を渡し、動画を撮ってれと頼んで順番を待ち、ポニーにまたがった。ポニーが一歩踏み出すごとに体が左右に大きく揺れ、とても怖かった。前を見ると、当たり前だけどいつもより視線が高くて、ますます怖くなる。あまりにおこがましくてばからしいのだが、武豊騎手や戸崎圭太騎手が見る景色はどんななんだろう? とも考えた。

 

降りてから、夫の撮ってくれた動画を見たら、全然ちゃんと撮れていなくて、半分くらいわたしじゃないところを撮っていた。ポニーの頭だけとか、地面とか、柵とか、周りにあるデパートの屋上にあるような乗り物とか、走り回る子供とか。

でも、馬にまたがった瞬間の、わたしの驚いた顔はばっちり撮れていて、わたしは自分がこんな顔をしていたのか、とまた驚いた。わたしはこの人の前で、こういう顔をするのか。じゃあ、あの日一緒に眼鏡を取りに行って、掛けた瞬間も、こんな顔をしていたのかもしれない。

 

ポニーの頭とか、地面とか、柵とか、周りにあったデパートの屋上にあるような乗り物とか、走り回る子供とか、わたしとか、それらを映しているのは携帯のカメラであり、夫の手と目だ。そして、動画の中のわたしがカメラに目を向ける瞬間、わたしは夫の手と、その向こうの目も見ている。わたしたちはそれぞれに、違うものを見ている。動画を見て、わたしは夫のわたしを見る目を知る。わたしが夫を見る目を知る。

その晩、夫が眠った後、わたしは何度も何度も、動画を再生した。動画の中のわたしは、肩の力が抜けていて、自由に自然にしているように見える。コンプレックスである前歯を恥ずかしがることなくむき出しにして、驚いたり、笑ったりしている。これがあの人が見ているわたしか、と思い、わたしは自分がこの人と結婚しようと思った瞬間のことを思い出し、ひそかに胸を熱くした。

 

それでもわたしは、そんな気分を何度も忘れると思う。そしてきっと何度も思い出す。そういう性懲りもない瞬間の繰り返しと集積が、多分わたしたちをかたちづくっていく。

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