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母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20151003

日記

定期的に薬をもらいに行っている婦人科で、勧められるままに検診を受けたら、左の卵巣が腫れていることが分かった。

 

「野球ボール……いや、テニスボールくらいの大きさになっています」

画像を見せながら医者はそう言ったが、わたしは野球ボールの大きさを知らない。

昨日たまたま社食で先輩たちと昼食を摂りながら、「中学の時テニス部だったんですよ」「え~中島さん運動してたの? 全然そう見えない」「よく言われます」と話したことを思い出したが、テニスボールの大きさも、はっきりとは思い出せなかった。

「普通はどれくらいの大きさなんですか」

「親指の先くらいですね」

生まれた時から体の中に卵巣を持っていたのに、そして毎月そこから卵をひとつずつ排出していたのに、卵巣がそんなに小さな臓器だなんて知らなかった。

とりあえず、親指の先とテニスボールとの大きさの差が、決して小さなものではないということだけは分かった。

 

その後の説明は、2ヶ月ほど前に大腸にできものが見つかった時に聞かされたのと大体同じだった。今の時点ではこれが何かは分からない。最悪の場合、悪性腫瘍という可能性もある。またそれか、と思った。

その後、採血をした。担当した若い女の看護師が、二度失敗した。

ぼんやりしたまま差し伸ばした左腕に立て続けに走った痛みに耐え切れず、思わず「別のもっと上手な方に代わってください」と言った。看護師は申し訳ありませんと言って小走りで処置室の奥へ消えた。

すぐに後悔した。なぜ「別のもっと上手な方」なんて言ったんだろう。「別の方」で十分じゃないか、と思った。

自己嫌悪に陥っていると、部屋の奥から看護師が別の看護師と話す声が聞こえてきた。

「針は入るんですけど、血が出てこないんです」

そんなことあるのかよ、「何もしてないのに壊れたんです」みたいなこと言ってんじゃねえよ、と思った。感情の動きがせわしなかった。動揺していた。

代わりに出てきた年配の看護師が、申し訳ありませんでしたと言いながら反対の腕に針を刺したが、やはり血は出てこなかった。ポンプのような器具を使って、無理やり吸い出すようにして、何とか規定の量が採れた。

「普段採血の時、血が出てこないことはありますか?」と訊かれたが、こっちが訊きたかった。今まで一度もないです、と答えると、「今日ご体調が悪かったりします?」と訊かれた。さっき左の卵巣がテニスボールくらいの大きさになっていると言われたから今採血することになったんですよ、それはご体調が悪いに含まれるんですか? と言いたかったが、口を開く気になれず黙って首を振った。

待合室に戻ると、席は順番待ちの患者で埋まっていた。やっと見つけた小さな椅子に腰かけると、タンクトップにデニムのショートパンツを履いた若い女が、上等そうなスーツを着た中年男と共に、受付で何やら揉めているのが目に入った。

女は甘ったるい声で腹が痛い、今すぐに診てほしい、一時間も待てない、とごねていた。男は、別の病院行く? 一旦救急車呼んでみる? とか何とか言い、なるべく騒ぎを大きくしないようにしていたが、女は大きな声で、やだぁ、痛いもん、我慢できないもん、と答えていた。今すぐ腹を切って死ねば痛い思いも我慢も永久にせずに済みますよ、と言いたいのを必死でこらえた。

 

会計を済ませ病院を出たところで、彼氏に電話をかけた。

彼は毎日深夜まで働いているので、休日の午前中には起きていない。分かっていたが指が電話を操作していた。

電話がつながったので「もしもし」と言うと、彼は「もしもし……もしもし……もしもし?」となぜか三回繰り返した。寝ぼけているらしかった。

ひと通り事情を説明するとさすがに目が覚めたらしかったが、さほど驚いた様子はなかった。彼は何が起こっても、さほど驚かない。

彼は祖父を癌で亡くしていて、母親も長い闘病生活を経て癌を完治させていた。

彼は祖父と母親の病気が判明した時の話をまじえながらわたしをなだめ、「大丈夫だよ」と何度も言った。「最悪の場合でもきっと何とかなるよ。今あれこれ想像をしても無駄だから、楽しいことを考えて。難しいと思うけど考えて。昨日のライヴはどうだったの?」と言った。

「最高だった。ceroと、ニューヨークで活躍してるトランぺッターの人が一緒にやって、ステージの後ろに東京の夜景が広がってて、はしもっちゃんのコーラスがいつもよりもっともっときれいで、あと、『ターミナル』っていう曲があるんだけど全然違う曲みたいなアレンジで、すごくて、トランペットもすごくて、高城さんの歌声もヒップホップみたいで落語みたいで、とにかく全部良かった。でもあらぴーにすごい近い席をとったつもりでわくわくしながら行ったのに、近すぎて頭と背中しか見えなかった」

わたしがそうまくしたてるのを聞いて彼がけらけらと笑ったので、わたしもつられて笑ってしまった。

その後は、冗談を言い合いながらお互い簡単に近況報告をした。駅に着いたので「またね」と言って電話を切った。

 

そのまま地下鉄に乗りスーパーに寄って、あらかじめ切られてパックになっているサラダのセットとノンオイルのドレッシングと無脂肪の牛乳と脂質の少ないパンを買った。

それらを提げて帰り、いつも台所の換気扇の下に置いている煙草を、箱ごと捨てた。

 

わたしの祖父は一日に何箱も煙草を吸い、何リットルも酒を飲み、好きなものだけを食べて暮らしていたが、大病を患うことなく80年以上生き、老衰で亡くなった。

こんなことをしても大した意味はないと思った。

どんなに健康に気を配っていても病気になる人はなるし、どんなに不摂生をしていても病気にならない人はならない。ばかみたいだ、と思った。でも何かせずにはいられなかった。

 

買ってきたものを冷蔵庫にしまった後、服を脱いで横になり、自分の腹を触った。腫れは分からなかった。この皮の下で卵巣がめちゃくちゃに腫れているなんて、嘘のようだった。

彼氏の言った通り、楽しいことを思い出そうと思った。そうしたら、『アンパンマンたいそう』の歌詞が頭に浮かんだ。

「もし自信をなくして くじけそうになったら いいことだけいいことだけ 思い出せ」

あれは真理だったのだな、と思った。今、いいことだけを思い出そうとしている。

でも、溢れそうなほどたくさんあるはずのそれは、なかなかうまく出てきてくれない。

わたしは看護師の「針は入るんですけど、血が出てこないんです」という言葉を思い出し、そうだよな、そういうこともあるよな、と思った。ごめんね、と声に出して謝ると、涙が出た。何の涙なのかはよく分からなかった。

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