母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20210905

お待たせしました、と約束より10分ほど遅れて現れた男の顔には全く見覚えがなく、いやマスクをしているから当然か、と思い直したものの、彼が座りマスクを外しても、それは変わらなかった。


頬のあたりが乾燥して赤くなっている。

首の詰まった白いTシャツにダークグレーのスタンドカラーのシャツを羽織っていて、DJ松永みたいな服装だなと思ったが、ベルトがOFF WHITEの派手な色使いのもので、何となく浮いているように見えた。


「僕、2年前にあなたに会ったことあります」と、マッチングアプリでマッチした男からメッセージをもらったのは2ヶ月ほど前のことだ。


「神保町の餃子屋で会いました。昔の彼氏と来たことがあるって言ってました」


2年前といえばちょうどわたしが離婚した頃だった。特にやけになっていたわけではないし、そもそも何かに縛られているような結婚生活でもなかったが、とにかくその頃わたしは好き放題遊んでいて、それは異性関係についても例外ではなかった。


ので、そう言った。

いろんな人と会っていたので思い出せません。餃子屋に行ったことも覚えていません、すみません。


そうですよね、と返事がきた。

楽しく飲んで親しくなったが、自分の仕事が忙しくなってそのうちあまり連絡を返せなくなり、落ち着いた頃にLINEをしたけどもう連絡がつかなかった、失礼なことをしたのは自分の方だった、と。


そこまで聞いてもぴんとこなかった。考えてみたら、そもそも2年前のことを全然覚えていなかった。仕事はしていたのかとか、住んでいたアパートはどれだったかとか、自分にまつわる基本的なこと。整理しないと、整理しても、いろんなことが思い出せなかった。

男の名前は偶然、元夫と同じだったが、その事実も何かを呼び起こすことはなかった。


また会えますか、と言われ、会うことにした。会ったことがあるというのは嘘かもしれないと思ったが、そんな嘘をついて何か得があるとも思えなかった。神保町に昔の彼氏とよく行っていた餃子屋があるのは、一応事実だった。


お互いがワクチンを2回打ち抗体ができてから今度は別の店へ餃子を食べに行く、と決め、やりとりをしているうちに向こうが一緒に映画が観たいと言い、提案された「フリー・ガイ」を却下するかたちで「ドライブ・マイ・カー」を観ることになった。


餃子はわたしの手のひらほども大きく、とにかく肉汁が多かった。にんにくやにらが入っていないがパンチがあるのが特徴だ、というのを昨日の夜ネットで調べて知ったのだが、パンチ、あるか? と思ってもうひとつ、またひとつと口に運んでいるうちに食べ終わってしまった。一緒に頼んだ炒飯とエビマヨは入りきらず、残した。


近くの文具店で適当に時間をつぶしてから映画館に向かい、わたしはアイスティーを、相手は爽健美茶を買い席につく。紙カップはSサイズでも十分大きく、Mにしなくてよかったと思った。

チケットは昨日相手がとってくれていた。どこの席がいいですか、と訊かれ「半分よりうしろの、左手の奥の方」と答えたら、僕も左側が好きですと言われた。その通りの席だった。


両隣と前後の席はひとつ空けるスタイルだったが、それでも人が多かった。日曜の昼下がり、しかも話題作だ。想像できたことだった。いくつか言い訳が浮かびそうになったが、意味がないのでやめた。


「ドライブ・マイ・カー」は素晴らしく、いくつかのシーンでこちらへ向けられた役者たちの視線(比喩でなく、物理的な意味での視線)には、こちらの胸をこじ開けてかき乱してくる、ちょっと不気味なくらい強い力があり、その目で見られる前の自分には、もう戻れないと感じるほどだった。

わたしはエンドロールを見ながら、漠然と、蝋を想像していた。こじ開けられたわたしの中に溶けた蝋が注ぎ込まれ、それが固まった頃合いにわたしという型を外してみると、蝋はわたしに空いた空洞のかたちに成っている。わたしはそれを目の当たりにして、これが自分の欠落のかたちだ、と知る。


映画が終わり、短い言葉を交わしてから劇場の外へ出ようとしたところで、持っていたアイスティーの紙カップを落としてしまった。慌てて拾おうとしたがうまく拾えず、拾ってもらった。受け取ろうとした時、指どうしたんですか? と訊かれて見ると、右手の親指がなぜか激しく痙攣していた。


予定があると言うので、映画館を出てすぐのところで別れた。感想を語り合いたくなる映画を観たのにぱっとひとりになるのは何となく淋しい気がしたが、同じくらいひとりになりたいとも思っていた。


手を振り、背を向けてイヤフォンをつけ、石橋英子の曲を何か聞こうと思ってライブラリを検索し、「幼い頃、遊んだ海は」を選んで再生ボタンを押したが、ぶつぶつ途切れてちゃんと流れなかった。ためしにライブラリのいちばん上にあったLil Nas Xの「INDUSTRY BABY」を再生したらどういうわけかスムーズに流れたので、電車に乗り、家に着くまでずっとリピートで聞き続けた。「ドライブ・マイ・カー」とはかけ離れた内容の曲だが、気にならなかった。


わたしは電車の中で、もう亡くなった友達と西新宿に餃子を食べに行った時のことを思い出していた。その時彼女が持っていた傘の鮮やかな色と、その持ち手のフォルムの美しさを。そういえば今日出掛けに傘を持とうか迷ってやめたが、結局雨は降らなかったな、と思った。

たらふく食べたはずが、もうお腹が空き始めていた。かばんの中にチョコレートが入っているのを思い出したが、食べようとは思わなかった。