母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20150712

お台場に行くのはライヴの時くらいだが、行く度に「ここは人工的につくられた街だ」というようなことを思う。

多分、埋立地だから、というものすごく安直な理由からなのだと思うけど、そんなことを言ったら埋立地なんて他にもたくさんあるし、そもそも人の手によってつくられていない街など存在しない。普段何気なく「自然」と呼んでいる山や川だって、人の手によって長い年月をかけてかたちを変えられ続けて、今ある状態になっている。

 

そういうことは百も承知なのだけど、お台場に行くと、本当は海だったはずの場所に自分が立っていることが、不思議で仕方なくなる。もっと言うと、正しいことなのかよく分からなくなる。現実感が揺らいで、すれ違う家族や恋人たちが、幽霊みたいに見えることもある。

 

昨日、ceroのライヴの開演を待つ間、ファーストフード店の窓際の席で本を読みながらふと観覧車を見上げると、ちょうどひとつのゴンドラの中で、若い男が女の頭を自分の肩へと抱き寄せているところだった。

観覧車の中で肩を寄せ合う男女なんて映画の中でしか見たことがないのに、と思ったら、ますます目にうつるものがうそのように見えて、落ち着かない気分になった。

 

お台場が自分にとってそういう風に、現実とそうでないものの境を曖昧にする場所だからか、昨日のceroのライヴの間中、頭の中には境が曖昧な物事が、脈絡なく浮かび続けていた。

 

ある曲を聞いている時、わたしはふと「おじいちゃん元気かな」と思った。

そう思ってから自分でも驚いたけれど、祖父はとっくに亡くなっている。

でも、ものすごく自然に、「おじいちゃん元気かな」と思ったし、「元気かもしれないな」とまで思った。お台場という場が生と死の境を曖昧にしたのかもしれないし、ceroの音楽がそうさせたのかもしれない。あるいは、わたしが祖父の葬儀に出なかったせいかもしれない、とも思った。

 

訃報を受けた時、わたしには遠方である祖父のもとまで行く交通費を、どうしても捻出することができなかった。当時の恋人に相談すると、「本当に行きたいなら俺が貸すよ。でも行きたくないんでしょ?」と言われた。

その通りだった。祖父の遺体を見るのが怖くて仕方なかったのだ。あの大きな体がもう動かないという現実を、目の当たりにする勇気が出なかった。

 

小さい頃、わたしは「多い」と「大きい」の概念の違いをうまく理解できなかった。

ある年の夏休み、教師だった祖父は、わたしの国語の宿題を見ながらその間違いを指摘し、問題集の余白に小さな円をたくさん、そしてその隣に大きな円をひとつ描いた。

「これが『多い』、これが『大きい』」

ずっとごちゃごちゃになっていたことがすっきりと整理された気持ちよさと、「おおい」と「おおきい」が永久に切り分けられてしまった淋しさを、ceroの曲を聞きながら、それに胸打たれながら、なぜか思い出していた。

 

病床の祖父の為に大きなサイズのパジャマを買って送ってほしい、と母に頼まれて、池袋のサカゼンに行ったことも思い出した。祖父は昔の人にしては、体が大きい人だった。サカゼンで、わたしに初めて「大きい」を教えてくれたのが祖父だったことを思い出したかどうかは、覚えていない。

 

死んだ祖父がどこかで元気でいるといいな、と思い、それにつられるように、二ヶ月ほど前にもう会えなくなってしまった大切な友人のことを思い出し、元気でいるといいな、と思った。その友人は生きている。でももう二度と会えない。わたしはそのことが本当のことなのかどうか、まだよく理解できていない。

 

お台場に向かう途中、乗り換え駅で同じ職場の人とすれ違った。

向こうは気付かなかったので声を掛けることはしなかったが、職場からもその人の住む街からもわたしが住む街からも遠く離れた駅ですれ違うなんて、と驚いた。

 

大した縁もない人とだってそんなことが普通に起こるのに、お互いを大切に思っているわたしたちが死ぬまで会えないなんて、何かの間違いじゃないだろうかと思った。

最後の日の別れ際、「淋しい?」と訊ねたら、彼は「まだよく分からない」と答えた。わたしもまだよく分からないでいる。自分に、心から信頼し尊敬し心の全てを打ち明けられる他人がいたなんて、全部まぼろしだったんじゃないかとも思う。

 

そうやって色々なことを考えているうちに、本当にあったことと、本当にあったのだと自分が思い込んでいるだけかもしれないこととの違いが、どんどん分からなくなっていった。でもそれは、決して嫌な気分ではなかった。

時間も記憶も命も人とのつながりもみんな、本当は不確かで曖昧ではっきりとした境などない、ということの面白さとその果てしなさに、胸が躍っていた。

ceroの音楽を聞いている時以上に、そういうことを強く感じる瞬間はない。

これが適切な楽しみ方なのか分からないが、適切な楽しみ方などないということも分かっている。

 

帰り道、ゆりかもめの車窓から、きらきら光る、たくさんの大きい建物を見た。

乗り慣れていないせいか、ゆりかもめが自分をどこに運んでいるかよく分からなかった。乗り物に乗っている時の、そういう無防備な身体の状態が、ものすごく苦手でものすごく好きだ。

車窓には、痩せて以前より頬骨の高くなった自分の顔が映っていた。汗と涙で、化粧はすっかりはげていた。

 

祖父と友人に会って、ceroのライヴがどんなに素晴らしかったか、その音楽がわたしに何を考えさせたかを全部話したいと思った。いつかどこかで話せるんじゃないか、とも思った。

20150613

先日久しぶりに、家に友人が遊びに来た。

わたしの家は冬、外よりも寒くなるので、とてもじゃないが人を呼べない。

暖かくなったら友人に来てほしい、と冬の間中思っていたことが、やっとかなったのだった。

 

駅前で彼女を迎えてから、まず近所の霊園を散歩した。

とにかく敷地が広く、墓と墓の間隔も狭くなく、ゆったりしていて一般的な墓地の暗さや怖さが全くないし、都心にもかかわらず木々が青く茂り、季節の花々が咲いていて、単純に景色が美しいので、たまに休日の昼間ひとりで散歩する、好きな場所だった。

 

二人とも草花の名前に詳しくないので、ツツジ以外の花の名前は全く分からなかったが、たくさんの花を見ては、きれいだね、かわいいね、と言い合った。

名前も分からない植物の、まるで誰かが計算したかのように幾何学的で規則的な様に、驚いたりもした。

「こうなろうと思ってないのにどうしてこうなるんだろう」

「すごいね」

 

その霊園は宗派を限定していないので、ありとあらゆる墓がある。

墓というより記念碑や銅像に近いものや、好きな詩や最期の言葉を刻んだものなんかもあって、こんな言い方をしていいのか分からないが、バラエティに富んでいて、見ていて飽きない。

 

そんな墓のうちのひとつに「みんなありがとう」とだけ刻まれたものがあった。

二人で声を揃えて、「うわーーー」と言ってしまった。

 

たとえば自分の死期を知り、墓に刻む言葉を自由に決めていいということになったら、何にする? と訊ね合ったが答えは出なかった。とりあえず、「みんなありがとう」は出てこないな、と言い合った。わたしは多分、もうちょっとふざけるか、かっこつけてしまうと思った。どんな人だったんだろう、いい人だったんだろうね、と友人は言ったし、わたしもそう思ったが、「これで生前めちゃくちゃ人とかぶん殴ってたらおもしろいな」と失礼極まりないことも考えてしまった。

 

墓を見て、その人が生きていた時のことを想像はできても、知ることはできない。死んだらそれで終わりで、誰とも知り合えないし、話せない。そう思いながら、花の写真を撮る友人の姿を見ていた。この人と、生きている間ずっと、良い関係でいたいと思った。

死んだら全部終わりだとしても、そう思った瞬間は永遠に消えない。わたしが死んでも人類が滅びても、時間はずっとそれを覚えているとわたしは思っている。というか、そう信じることにしている。

 

最近特にそんな風に思うようになったのは、少し前に別の友人と、もう二度と会えなくなってしまったからだった。彼は決して死んだわけでも電波の届かないどこかへ移住したわけでもないが、色々な事情があり、もう会うことも連絡をとることもできない。

でも、共に過ごした時間は永遠に消えずに残る、と根拠なく感じる瞬間が、今もたくさんある。たとえば大好きな友人と霊園を歩いている時、花を見た時、自分の死を想像した時。

 

わたしは小さい頃から、時間というものは、世界全体の歴史の記録書みたいな、永遠に途切れない巻物のようなかたちをしたものだと想像してきた。

その上には全ての人々の時間が刻まれていて、そのうちのある箇所に、わたしと彼の時間は重なり合ってちっぽけに、だが確かに記録されていて、それが消えたり失われることは、時間が流れることをやめない限りは、ありえないと思っている。

 

これまでの人生の中で、もう会うことができなくなってしまった大切な人たちがたくさんいるが、そのことを思って淋しくはなっても、つらくてつらくて死にたくなるようなことがないのは、この謎の「巻物理論」のおかげだろう。むなしい慰めに過ぎないかもしれないが、それで自分は救われてきたのだから、別に真実や科学のことはどうだっていい。

 

「わたしたちがこのまま独身のまま死んだら、多分親の墓に入るんだよね」

「自分で自分だけの墓を建てられるだけのお金を遺していて、事前にそういう希望を書いたきちんとした遺言状を作っていて、それを実行してくれる人がそばにいなかったら、そうなるよね。そしたら面白い言葉とか刻めないね」

霊園の帰り道、友人とそんな話をした。

一人で死ぬということは、自分の墓も選べないということか、と考えると悲しくなったが、「でもどうでもいいな、どうせ誰も墓参りとか来ねえし!」と笑い飛ばした。

 

その後、ずっと彼女を連れていきたかったパン屋へ寄り、わたしの家で宝塚のDVDと、彼女に見せたかったドキュメンタリー番組の録画を見た。楽しかった。彼女も楽しんでくれた。心から幸せだと思った。

 

今が良ければそれでいい、とわたしは心底思う。

先日、SAKEROCKのラストライヴを観た後も、同じことを思った。色々な変化を経ながらも長く続いてきた、素晴らしいバンドがなくなる。でもメンバーは今みんな、それぞれの場で活躍し、それぞれに楽しみ苦しみ、でもおそらくいい時間を過ごしていると思う。もちろん勝手な想像だが、そうでなければ出せない音が、あの日は確かに聞こえていた。

 

SAKEROCKはなくならない。これもわたしの「巻物理論」からくる個人的な実感だが、かたちが失われるということには、さほど大きな意味はない。それまで存在していた何かがあり、そこから途切れなく連続した現在があり、それが良い状態であるということに、意味がある。というかそれにしか意味はない。

 

SAKEROCKのラストアルバムのタイトルは『SAYONARA』で、最初はそんな悲しいこと言うなよと思ったけど、今はとてもいいタイトルだと思う。人生にはいくつものさよならがあるが、さよならは何も消去せず、断絶しない。

そんなことを思いながら、今『SAYONARA』を聞いている。わたしはこれから歯を磨き、掃除機をかけ、スーパーとクリーニング屋とTSUTAYAに行く。

20141219

さっき風呂に浸かっていて、特にすることもないので数を数えていたら、なぜか突然、母がわたしの中谷美紀のモノマネが好きだったことを思い出した。

 
『JIN-仁-』というドラマで、中谷美紀演じる花魁が、思いを寄せる大沢たかおに別れを告げるシーンでの「おさらばえぇ〜」というセリフの真似なのだが、全然似ていないし、もちろん面白くもない。しかし母は見るたびにコロコロと笑い、何度もリクエストしてきた。
 
今調べてみたら、ドラマが放送されていたのはわたしが上京して実家を出た後のことだった。つまり盆か正月の帰省の短い間に、何度も同じモノマネをやったということだ。いったいあれの何が琴線に触れたのか。
 
他にも母のお気に入りのモノマネがあった。『北の国から』の純くんが、北海道に引っ越して、新しい家に電気が通っていないことを五郎さんから聞かされ「電気がないぃ!?」と大げさに驚くところの真似だ。
母にそれがハマったのはわたしが高校生の時だったと思う。あまりにウケるので一度友人の前で披露したが、当然全く笑ってもらえなかった。
 
風呂の中、色々な記憶が芋づる式に、しかし脈絡なく蘇る。
 
中学生の時に、幼稚園の連絡ノートを読み返したら、母が先生に「とう子はモスラの歌を歌えるようになりました。今度リクエストしてみてください」と書いていて、それに対して先生が「なかなか歌おうとしてくれませんでしたが、照れながら歌ってくれました」と返していたページがあった。
 
幼稚園の先生の前でモスラの歌を歌った時のことを、中学生の時分には既に忘れていたし、今も思い出せないままだが、体を洗いながら試しにモスラの歌を歌ってみたら、そらで終わりまでちゃんと歌えた。
 
と、思って今歌詞を調べてみたら、後半がだいぶ間違っていた。
正しい歌詞で歌ってみたら、すごく変な感じがしたので、たぶん当時から間違えて覚えていたのではないかと思う。
 
モスラの、首がくるくる回るソフビ人形を持っていたことを、今思い出した。かわいらしくデフォルメされた指人形も持っていた。ミニラやゴジラのもあった。
どうして忘れていたんだろうと思うくらい、忘れていることがたくさんある。間違って覚えていることもたくさんありそうな気がする。
 
昔付き合っていた人の誕生日に、おめでとうとメールを送ったら、朝陽が昇り始める頃にお礼のメールがきて、「このくらいの時間に生まれました」と書いてあったことがあった。
 
メールを読み終えて窓を開けると、五月晴れの雲ひとつない空が朝陽で一面パーッと白く明るくなっていくところで、めちゃくちゃに感激してしまった。わたしはその人のことを好きになって、パーッと明るい気持ちになることがたくさんあったので、何てよくできた話なんだと思ったのだ。
 
わたしが生まれたのは深夜の2時ごろだという。だからというわけじゃないが、冬の深夜はとても好きだ。
 
今、表からは、そろそろ始まる深夜工事の準備をする人たちの声が聞こえている。電車の走る音もする。わたしは起きたら27歳になっている。

20141121

今年いちばんかもしれないというくらい、素晴らしい映画を観た。
 
映画館から駅まで歩く道すがら、マスクの中の口が笑いのかたちになったまま戻らず、目頭のあたりには、気を抜くとまた流れ出てきそうな涙の気配がずっと控えていた。
 
大声を上げて走って、すれ違う人たち全員とハイタッチをして抱き合って、そのまま道路に倒れこんで、みんなで寝転んで朝まで話をしたい。良い映画を観られたうれしさでどうしようもなく気持ちが暴れて、そんな風に、できもしない、というか本当にしたいのかもよく分からないことを、次々に想像した。
胸がドキドキしていたので、どこかでちょっと座って休んでから帰りたかったが、ちょっと座るところはなかなか見つからず、仕方なくだらだら駅まで歩いた。
 
地下鉄の駅のトイレの前を通ると、作業着を着た男性が二人並んで、入り口のガラスタイルをメジャーで計っていた。
二人のうち年配の方が金属製のメジャーを地面から伸ばして押さえ、若い方がバインダーに挟んだ書類にしきりに何かを書き込んでいた。いちいち肩を寄せ合ってメジャーの示す数字を覗き込み、囁き合うように何かを確認する二人の姿からなぜか目が離せず、しばらく見つめてしまった。
 
地下鉄に乗ってつり革を握ったところで、どうしてあの二人が気になったか考えているうちに、今日会社から映画館へ向かう電車の中で起きたできごとを思い出した。
 
その電車で隣に立っていた男女は、職場の先輩後輩のようで、二人の会話は仕事の話と世間話をいったりきたりしながら、終始途切れず、おだやかに盛り上がり続けていた。
後輩の女性の方の相槌が、何ということもないのだが絶妙に上手で、先輩の男性も気持ちよく話しているのが伝わってきた。わたしは文庫本を読みつつ、二人の会話にぼんやり耳を傾けていた。
 
「あっ、東京タワーだ」
突然会話をやめて彼女がそう言ったので思わず顔を上げると、ビルの隙間から東京タワーがのぞき、また隠れたところだった。
橙色に光る東京タワーは、何度か繰り返し同じように顔を出した。
電車の窓には、窓の向こうにそびえる鉄塔に目を奪われた二人とわたしの姿がうつっていた。
 
結局わたしたちは、東京タワーが完全に姿を見せなくなるまで、黙ったままずっとそれを見ていた。
同じ時に同じ場所から同じ物を、しかも別に珍しくもない物をただ見たというだけなのに、電車を降りた時、わたしは自分が二人に対して、好意というか愛着のようなものを抱いていることに気付いて、とても驚いた。
 
今日映画を観ていて、場内で笑い声が上がったりすすり泣きが聞こえたりした時も思ったのだが、どうして他人と何かを共有することは、こんなにもたやすく愛情を呼び起こしてしまうんだろう。
 
そう考えながら、わたしはその時同じ地下鉄の同じ車両に乗っている人々の様子を眺めた。
斜め後ろの初老の男性は「僕が働いていた頃の満員電車はもっとすごかった」という話を延々していて、酔っているのか、何度もわたしの体にぶつかった。目の前に座る女の子は、おかしくて仕方ないという表情で、時折吹き出しそうにまでなりながらスマホをいじっていた。隣に立っている同い年くらいのきれいなOL風の女性がコーチのバッグから取り出したスマホには、KIRIMI.ちゃんの大きなストラップがついていた。女の子の隣の男の子は、膝の上に水平に乗せたiPadでずっとTwitterInstagramとLINEをいったりきたりしていて、こちらが申し訳なくなるほど個人情報が丸見えだった。
 
地下鉄はちょうど駅に止まったところだったのでホームへと視線をそらすと、熊手を抱えた男性が一人、人混みをぬって歩いていくのが見えた。斜め後ろの男性が「今日、酉の市?」と言うのが聞こえて、また知らない人と同じ物を見たなぁと思った。
そこで初めて唐突に、わたしは今日観たとても素敵な映画を、一緒に観たかった人がいることに思い当たった。
 
自宅の最寄り駅に着いて階段を上っている時、この秋買った気に入っているスカートがふわふわと広がってとても気分が良かった。
来年の秋もこのスカートを履きたいと思った。

20141108

新しいタイプの納骨堂が、港区三田に誕生しました。
 
という広告が目の前にあった。
しばらく眺めていたけどどういう点が新しいのかはあまり分からなかった。考えてみたらそもそも納骨堂って何なのかわたしは知らない。それは墓とは違うものなのか。
 
大江戸線は地中深くにあって車両の屋根が低いので、乗っていると狭い部屋の中にいるような気持ちになる。走っている間ずっと、狭い部屋が動いているなぁと思う。
 
納骨堂の広告の言葉が全然頭に入ってこないので視線を落とすと、向かいに座っている女の子のコートとタイツの柄が何だか変で、何がおかしいのだろう、とよく見たら、ありえない量の毛玉がついていた。
 
大江戸線に乗る数分前、たまたま後輩の女の子と毛玉クリーナーの話をしていた。とう子さんがよかったと書いていたのを見て買ったらよかったです、と言われて、よいことをしたような気になった。あの子にも教えてあげたい。でも本人を見ると毛玉のことなんてちっとも気にしていなさそうだった。気にしていないなら必要ないなと思って、また広告を見た。
 
新しいタイプの納骨堂が港区三田に誕生しました、という広告を見て、「何だって、新しいタイプの納骨堂が? 今すぐ港区三田に行かなきゃ!」と思う人はいるのだろうか。いるからこういう広告があるのか。
 
自分の知らないところに、自分には用途のよく分からないものとそれに対する需要がちゃんと存在しているらしいことが、全然不思議ではないんだけど不思議なことのように思える。わたしの知らないところで、みんないろんなことをしている。
 
今日は友達や友達の友達や知り合いが、楽器を演奏したり歌ったり朗読をしたりする会に行った。
 
みんなそれぞれ立派にやっていて、それはちゃんと練習をしたということだけど、みんなが会社帰りや休みの日なんかに時間を作って同じ曲を何度も弾いたり歌ったり、同じ言葉を何度も口に出したりしていたと考えると、これまた不思議な気持ちだった。
何度も同じことを今日の為だけにやってきて、その成果を一回だけ見せてもらった。わたしは、その一回の中に詰まった、みんなのこれまでの日々のことを思った。
 
練習の帰りに何を食べたのか、その日は晴れていたのか、寒くはなかったか、今日まで今日のことをどんな風に想像してきたのか、その想像は良い気分を呼ぶものだったのか、練習を恋人や夫や妻には聞かせたのか、そして何を言ってもらったのか、そういうことを考えていた。
 
久しぶりに人の集まる場に出たので、緊張してほとんど黙っていたが、知っている人たちの生活の中の知らない時間の一部を垣間見ることができて、うれしかった。
 
今朝、眠れずに再生した『さまぁ〜ず×さまぁ〜ず』で、大竹さんが、三村さんの家庭の話を聞くのが好きだという話をしていたのを思い出した。
 
知り合ってから今までのありとあらゆるお前を知っているけど、家庭の中のお前だけは知らないから、そういう話を聞くのが楽しいんだ、というようなことを大竹さんが言うと、俺も同じ、というようなことを三村さんも言った。
 
情緒不安定で恥ずかしいけど、その話を聞きながら、気付いたら泣いていた。
わたしが想像する「他人を好きだと思う気持ち」は、こういうかたちをしているこのこれだ、と思ったからだ。
いつかわたしも好きな人とあんな風に美しい気持ちを交わし合いたいと思った。互いに対する果てのない興味を、ゆるやかに、絶えることなく注ぎ合える相手ができたらいい。
 
今は、自分だけの狭い部屋に帰ってきて、布団の中でiPhoneでこの日記を書いている。
表でしていた工事のうるさい音はいつの間にかやんで、かわりに隣人が回す洗濯機の音がしている。
 

20141007

夏と同じゆで時間では卵が十分にかたくならなくなり、秋がきたんだと気付く。殻をめくって剥がすたびに、手の上で卵がたゆんたゆんしてまるで生き物みたいだと思った。卵は無精卵でも生き物の部類に入るのかちょっと考えてみたけど分からなかったので後でググる

そういえば昨夜友達と飲んでる時、何か精子に関する話をした気がする。そのあと、全く違う文脈で富岡製糸場の話になり、今ではもう会わなくなった富岡生まれの友達が昔、「小学生の時、富岡製糸場で写生大会をした」と話すのを聞いて、嘘か本当か分からないけどめちゃくちゃ笑ったことがあったのを思い出した。その話を、その時飲んでた友達にも聞かせたかったけど、静かなバーに客はわたしたちだけという状況だったので一応我慢した。店を出たら言おうと思っていたのに、結局忘れてしまった。


昨夜は友達の誕生日祝いだった。
おめでたい気分のせいか、さほど飲んでいないのに割りかし酔ってしまい、いつにもまして自分のことばかりしゃべったような気がする。
今朝目を覚ました頃には、話の内容や細かい言い回しの記憶はすでに断片的になり始めていて、楽しかったという、おおざっぱで素朴な感触だけがぽつんと残っていた。

バーを出た後、くだんの足に合っていない靴で、新宿の街をひょこひょこと歩いた。
夜中の1時だというのに、街にはまだたくさん人がいて、信号を待ちながら友達と、すごいねぇと言い交わした。「眠らない街、新宿!」と思ったし、もしかしたら実際口にも出したかもしれない。

わたしの生まれ育った街は、22時には眠る街だった。その時間を過ぎると外を歩くのは不良か夜から働きに出る人か野生の動物くらいになり、信号はみんな赤か黄色の点滅信号に切り替えられた。街灯もなく、夜道を歩く時は、必ず懐中電灯を持たねばならなかった。

東京に出てきて、「眠らない街」というのは、本当にあるんだと心底驚いた。比喩みたいなものかと思っていたけどただの事実だった。いまだに夜、街に出るたびに、人がたくさんいて明るいというただそれだけのことに、わたしはバカみたいに驚き続けている。
新宿五丁目の交差点がたまらなく好きだ。でかくてかっこいい。タクシーが次々に乱暴に走り過ぎていくのを見るのが好きだ。

半袖のニットから出た、酒で火照った腕に友達のコートの生地があたって、それがひんやりしていることにも驚いた。今年も夏があったということがもう嘘みたいに思えた。

20140930

昼前にお腹が空いて、この間上司にタイ土産でもらったマンゴー味のお菓子の口を開けてみたら、びっくりするほど強いマンゴーの香りがした。鼻の粘膜に染み付くようなあまりのトロピカル臭に、そういえばそんなに食べる機会のない物だから忘れていたけどわたしマンゴー味好きじゃなかったな、ということを思い出し、そのまま引き出しに戻した。
午後になっても夜になっても、引き出しを開け閉めするたびにマンゴーの香りがして、ちょっと参った。
 
電車で帰る途中、本を読む集中力が切れて顔を上げると、制服姿の二人の女子中学生が、わたしの座席の前に立っていた。一人が眼鏡のおさげで、もう一人がボブ。テニスラケットを背負った二人は部活帰りなのかひどく疲れた様子で、しばらくそれぞれぐったりと黙っていたが、そのうちボブのほうが口を開いた。
 
「ねえ好きな果物教えて」
「え、マンゴーと、メロン」
「何で?」
「高級感があるから」
「マンゴー、うちのお兄ちゃんも好き」
「へえ」
「おいしいよね」
「うん、でも季節じゃないと高い」
「そうかも」
 
会話はそれで終わりだった。「季節じゃないと高い」のところだけやけに早口で、母親か誰かの口真似なのかもしれないと思った。
 
わたしも昔、部活や遊びでくたくたになった帰り道で、こういう意味のないことを、友人と言い交わしたことがあったと思う。今でもある。目についた看板や広告の文字をただ読み上げて、つまらないことをぽつぽつ言って、言ったそばから忘れて、でもお互い全然平気でいるようなことがある。
 
ボブの子が、両手でつかまったつり革に体重をかけて上体をゆらゆらさせるたびに、肩に背負っているテニスラケットの面が、バナナみたいな黄色の別珍の袋ごしにこんこんとわたしの膝を打っていた。膝を引き寄せようかとも思ったけど、何となくそのままにした。
 
二人とは同じ駅で降りたがすぐに姿を見失った。
マンゴーっていうのは、普通の家庭の食卓にも結構のぼるものなのか、二人の家が特別なのか、考えたけどよく分からなかった。わたしはアレルギーで生の果物が一切食べられない。マンゴーも、本物は一度も食べたことがない。
 
家に着いて一旦荷物をおろし、家賃を渡しに階下の大家を訪ねると、大きな梨をひとつもらった。わたしはずっと、果物アレルギーであることを言いそびれている。
20世紀だか21世紀だかっていう、新潟の梨とのこと。皮へ鼻を寄せてみると、ガリガリ君梨味みたいなにおいがした。
 
食べるあてのない梨は、とりあえず冷凍庫にしまった。冷凍うどんと冷凍餃子の袋と保冷剤が散らばる間に唐突に梨が置かれてあるのは何だか面白くて、その夜、ハイボールに入れる氷を取り出すたびに、しばらく眺めてしまった。

20140929

最近腰が痛いのは、新しく買った靴が足に合っていないからかもしれない。

 

年々、店で服や靴を買うのが苦手になり、最近は身に付けるものは、もっぱらネット通販で買っている。たいていの既成服はS・M・Lとおおざっぱなサイズでつくられているし、標準的な体型の自分はMを買っておけば大きな失敗をすることはない。微妙なフィット感の違いが見え方を大きく左右するような、繊細なつくりの服を求めないようにしているのもある。

 

しかし靴に関してはそうはいかず、わたしはこの半年の間で、ネットで買った靴を3度も返品した。3度とも、まるで足が入らなかったのだ。最近買って履いている靴も、一応入るには入ったがどうにも窮屈で、ストレッチに出して何とか履いている。正しいサイズを買っているはずなのになぜだろうと、ずっと不思議でならなかった。

 

最近になって、靴には23㎝とか23.5㎝といった縦のサイズはまた別に、足の横幅に関する「ワイズ」という基準があることを、恥ずかしながらようやく知った。

ネットで探した基準表を見ながら、家にあったメジャーで測ったところ、わたしの足のワイズはAからEEEまである内のEという、比較的広めのものであることが分かった。縦のサイズが22.5㎝と23㎝の間くらいであることを考えると、縦に対して横がやや広い足をしているようだ。

 

ワイズを知ってから自分の足を見ると、確かに前方にずんぐりとした存在感があり、それがかかとへ向けて拍子抜けするくらいすぼまった、妙なすがたをしていた。それまで足は足だと思っていたから、人の体というのはこんなところまで一人一人違った厄介なつくりになっているということに、うんざりしつつも少し感動したりした。

 

そうして自分の足を見ていたらふいに、小学3年か4年の夏休みに祖父母の家のソファで寝転がっている時、近付いてきた祖父に突然足をつかまれ、「とう子は足が大きいな、きっとこれから背が伸びるな」と言われたことがあったのを思い出した。

当時のわたしは背の順で先頭以外に立ったことがないほど小柄だったので、祖父の言葉はにわかには信じがたかったが、おじいちゃんがそう言うなら、と少し希望を抱いたのも覚えている。いつも声が大きく堂々としてちょっと不遜で、威厳というには少し荒々しいが不快でない、妙な圧を持った人だった。田舎によくいるタイプのおじいちゃんだったとも言える。

祖父の言葉の後、ほどなくして成長期を迎えたわたしは祖父の先見の明に感激したのもつかの間、身長の伸びはあっけないほどすぐ止まり、今では大きくも小さくもない、普通の体つきになった。

 

今、足を見ていると、祖父がこの前方のずんぐり部分に、何かのエネルギーのたまりのようなものを感じたのも、分からなくはない気がしてくる。あるいは全然そんなことはなくて、単にこの足のあまりの不恰好さに、何かでまかせの慰めを言ってやりたくなったのかもしれない。祖父が死んでしまった今では確かめようはない。

 

窮屈な靴で、重だるい足腰をひきずりだらだらと駅の改札を通って地上に上がると、木のにおいが鼻をかすめた。においをたどると、工事現場に整然と積まれた木材に行きついた。ぱかぱかと規則的に光っては消える毒々しいほど赤い照明に目を細めながら、これから何になるのか分からないその木材をしばらくぼんやり眺めて、家へ帰った。