母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20171201

毎日日記をつけているという友だちが、何人かいる。
わたしも何度となく挑戦したものの毎回挫折してきたので、よく続けられるなぁ、と感服しつつ自分の意思の弱さにがっかりもするのだけど、この間、そんな日記継続中の友だちと久しぶりにご飯を食べ、お互いに終電ダッシュで別れて何とか電車に飛び乗った後、彼は今日わたしと会ったということを、そして話した内容なんかを日記に書くのだろうか、きっと書くのだろうと考えたら、素直にうれしくなった。
友だちの生きる日々の、ある一日に自分がいたことと、言葉を、願わくば思いを互いに交わしたということが友だちの言葉で記録される。いつかそれを読み返し、今日のことを思うかもしれない。わたしが寒い中なぜか薄手のシャツ一枚でやってきて目の前で震えていたことを思い出すかもしれない。
彼がそれを書いたその日と、それを読み返すかもしれない未来に、わたしがいる。わたしはその間、友だちと共に在る。
そう考えたら、人と共に在ることの根源的な喜びがわっと胸に広がった。
彼と二人で会うのは三年半ぶりだった。電車の中で、涙が滲みそうになった。

このブログも一応日記なのだけど、書きたいことがあった時しか書かない、ある程度人が読むことを前提として書かれているという点で、いわゆる日記とは大きく異なっている。書きたいことがないならそれはそれでいい。しかしなぜ、わたしは極私的な日記を人に見せるのか。

それはわたしが他人のごくごく私的な話を聞いたり読んだりするのが好きだということと関係している。
私的だということは固有であるということで、固有であるというのは、ただそれだけで特別であるということだ。私的な話の特別さは、いつもわたしの心を強く打つ。わたしの中に眠る、私的な話を思い起こさせる。そして二つの間に、関連性を見出させる。わたしは時にそこに、普遍を見たりもする。

極私的な話の中にこそ、普遍的なものがあるのではないか。それならばそれを誰かに開くことには何か意味があるのではないか。
自分の言葉に影響力があるなんて思ってはいないけど、何となくそういうことを考えて、ここで日記を見せている。
わたしがそうすることにもまた、人と共に在ることの根源的な喜びの破片があったらいいなと思いながら。

このブログを冊子にしようと考え始めたのは、少し前のことだ。
近視と乱視と潜在的斜視が混ざったややこしい目が年々悪くなってきて、パソコンやスマホの画面を見るとだいぶ疲れるようになってきた。
少し大きな文字で紙にすれば読み返しやすい。手で触ったりかばんに入れたり本棚にしまったりできれば、日々の記録が消えてしまう不安もなくなる。と、これまたごく私的な願望を抱いたのがきっかけのひとつだ。

売るのか配るのか、どこで、誰に対して、というところは、情けないことにほぼ決まっていない。まずはそこからのスタートになので、おそらく出すのは結構先のことになるだろう。
でもやろうと思っている。早く作りたいな、とも。もしも誰かの時間にわたしのある日の時間が立ち現れ、ふたつが重なり共に未来へ流れるのだとしたら、それは夢みたいに光栄で幸福なことだからだ。

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