母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20180927

何の前触れもなく静かに電車が止まり、何事かと窓の外をよくよく見ると、並走する電車が同じ速度で走っているので止まったように見えただけだった。

ふたつの電車の速度は徐々にずれ、窓の外を人々が流れていく。

マスクをした背の高いスーツの男性、赤い抱っこひもの中に子どもを抱く女性、窓に押し付けられ窮屈そうにスマホをいじる若い男性。


地上を走る電車に乗るのは久しぶりだ。今月の半ばに引っ越して、使う路線が変わった。新しく住んでいる街は、不動産屋で物件情報を見るまで、名前を聞いたこともなく、どこにあるどんな街かも分からなかった。

内見もせず決めたので、入居の直前、初めて駅に降り立った時に目にしたパッとしない風景に、不安と後悔を感じずにはいられなかった。果たしてこの街を好きになれるのか。わたしはパッとしない田舎でパッとしない育ち方をし、きらびやかな東京に憧れて遥々上京してきたのではなかったのか。閑散としたマクドナルド、狭苦しいドラッグストアに100均、やっているのかいないのかも分からない、ウィンドウが黄ばんだ何かの店、何だか美味しくなさそうなパン屋。


しかし住めば都とまではいかないが、いいところもまぁ見つかりつつある。そのひとつが、陽の入る電車に乗れることだった。人がいて、建物があり、道があり、乗り物が走り、街が息をしている。それを毎朝、眼下に見る。陳腐な言い方だが、生きていると感じる。生活を営んでいるという実感がある。わたしも、わたし以外の人々も。

この車両にいる人もいない人も、みな同じく、しかし別々の固有の命を生きている。そういう個々人の人生があるのだということは、マジョリティだとかマイノリティだとか、その違いを尊重するべきとかべきじゃないとか以前に、単なる事実だ。事実を見た時、心はしんと静かになる。無駄な装飾はすべて消え、わたしの中にひとつの思いだけが残る。命は誰のものでもなくそこにあるだけだ。静かにその言葉が響く。その小さな音は、田舎で憧れていた東京の喧騒や夥しい情報とは似ても似つかないものだが、しかし同じものだ。


明日もわたしは電車に乗る。何てことのない街を見る。その風景はどこにでもある、どこにもないものでつくられている。この街を愛せるかどうかはまだ分からないが、ここが今わたしがいる場所であることは、確かな事実だ。