母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20210905

お待たせしました、と約束より10分ほど遅れて現れた男の顔には全く見覚えがなく、いやマスクをしているから当然か、と思い直したものの、彼が座りマスクを外しても、それは変わらなかった。


頬のあたりが乾燥して赤くなっている。

首の詰まった白いTシャツにダークグレーのスタンドカラーのシャツを羽織っていて、DJ松永みたいな服装だなと思ったが、ベルトがOFF WHITEの派手な色使いのもので、何となく浮いているように見えた。


「僕、2年前にあなたに会ったことあります」と、マッチングアプリでマッチした男からメッセージをもらったのは2ヶ月ほど前のことだ。


「神保町の餃子屋で会いました。昔の彼氏と来たことがあるって言ってました」


2年前といえばちょうどわたしが離婚した頃だった。特にやけになっていたわけではないし、そもそも何かに縛られているような結婚生活でもなかったが、とにかくその頃わたしは好き放題遊んでいて、それは異性関係についても例外ではなかった。


ので、そう言った。

いろんな人と会っていたので思い出せません。餃子屋に行ったことも覚えていません、すみません。


そうですよね、と返事がきた。

楽しく飲んで親しくなったが、自分の仕事が忙しくなってそのうちあまり連絡を返せなくなり、落ち着いた頃にLINEをしたけどもう連絡がつかなかった、失礼なことをしたのは自分の方だった、と。


そこまで聞いてもぴんとこなかった。考えてみたら、そもそも2年前のことを全然覚えていなかった。仕事はしていたのかとか、住んでいたアパートはどれだったかとか、自分にまつわる基本的なこと。整理しないと、整理しても、いろんなことが思い出せなかった。

男の名前は偶然、元夫と同じだったが、その事実も何かを呼び起こすことはなかった。


また会えますか、と言われ、会うことにした。会ったことがあるというのは嘘かもしれないと思ったが、そんな嘘をついて何か得があるとも思えなかった。神保町に昔の彼氏とよく行っていた餃子屋があるのは、一応事実だった。


お互いがワクチンを2回打ち抗体ができてから今度は別の店へ餃子を食べに行く、と決め、やりとりをしているうちに向こうが一緒に映画が観たいと言い、提案された「フリー・ガイ」を却下するかたちで「ドライブ・マイ・カー」を観ることになった。


餃子はわたしの手のひらほども大きく、とにかく肉汁が多かった。にんにくやにらが入っていないがパンチがあるのが特徴だ、というのを昨日の夜ネットで調べて知ったのだが、パンチ、あるか? と思ってもうひとつ、またひとつと口に運んでいるうちに食べ終わってしまった。一緒に頼んだ炒飯とエビマヨは入りきらず、残した。


近くの文具店で適当に時間をつぶしてから映画館に向かい、わたしはアイスティーを、相手は爽健美茶を買い席につく。紙カップはSサイズでも十分大きく、Mにしなくてよかったと思った。

チケットは昨日相手がとってくれていた。どこの席がいいですか、と訊かれ「半分よりうしろの、左手の奥の方」と答えたら、僕も左側が好きですと言われた。その通りの席だった。


両隣と前後の席はひとつ空けるスタイルだったが、それでも人が多かった。日曜の昼下がり、しかも話題作だ。想像できたことだった。いくつか言い訳が浮かびそうになったが、意味がないのでやめた。


「ドライブ・マイ・カー」は素晴らしく、いくつかのシーンでこちらへ向けられた役者たちの視線(比喩でなく、物理的な意味での視線)には、こちらの胸をこじ開けてかき乱してくる、ちょっと不気味なくらい強い力があり、その目で見られる前の自分には、もう戻れないと感じるほどだった。

わたしはエンドロールを見ながら、漠然と、蝋を想像していた。こじ開けられたわたしの中に溶けた蝋が注ぎ込まれ、それが固まった頃合いにわたしという型を外してみると、蝋はわたしに空いた空洞のかたちに成っている。わたしはそれを目の当たりにして、これが自分の欠落のかたちだ、と知る。


映画が終わり、短い言葉を交わしてから劇場の外へ出ようとしたところで、持っていたアイスティーの紙カップを落としてしまった。慌てて拾おうとしたがうまく拾えず、拾ってもらった。受け取ろうとした時、指どうしたんですか? と訊かれて見ると、右手の親指がなぜか激しく痙攣していた。


予定があると言うので、映画館を出てすぐのところで別れた。感想を語り合いたくなる映画を観たのにぱっとひとりになるのは何となく淋しい気がしたが、同じくらいひとりになりたいとも思っていた。


手を振り、背を向けてイヤフォンをつけ、石橋英子の曲を何か聞こうと思ってライブラリを検索し、「幼い頃、遊んだ海は」を選んで再生ボタンを押したが、ぶつぶつ途切れてちゃんと流れなかった。ためしにライブラリのいちばん上にあったLil Nas Xの「INDUSTRY BABY」を再生したらどういうわけかスムーズに流れたので、電車に乗り、家に着くまでずっとリピートで聞き続けた。「ドライブ・マイ・カー」とはかけ離れた内容の曲だが、気にならなかった。


わたしは電車の中で、もう亡くなった友達と西新宿に餃子を食べに行った時のことを思い出していた。その時彼女が持っていた傘の鮮やかな色と、その持ち手のフォルムの美しさを。そういえば今日出掛けに傘を持とうか迷ってやめたが、結局雨は降らなかったな、と思った。

たらふく食べたはずが、もうお腹が空き始めていた。かばんの中にチョコレートが入っているのを思い出したが、食べようとは思わなかった。

おしらせ

2014年からここで続けてきた「母さん助けて日記」ですが、このたびnoteに引っ越すことにしました。

リンクは以下の通りです。

改めてブックマークやフォローをしていただけるとうれしいです。

https://note.com/toukonakajima

 

コピペ作業をしながら昔の記事を振り返ってみたら、当時の空気や自分の気分が結構そのまま保存されていて、読むごとに、風景やにおいや、言葉を交わした人の表情までもが、ありありと思い出されました。拙いなりに、日記としての役割は果たしてくれたな、と思います。

そんなわけで、体がかゆくなるような文章や、今とは状況や考えが変わっていることもたくさんありましたが、あえてそのまま引っ越しさせました。

 

本当に恥ずかしいのですが、読んでくださる方が増えるごとに、認められたいとか褒められたいとかいう、いやらしい気持ちが出てきて、いつからか「いい文章を書かなければ」と力むようになり、更新のペースががくっと落ちてしまっていました。

もっと気楽に、日々をただ記録する、くらいの気持ちでやればいいんだということを思い出せたので、これからはもっとコンスタントに更新していけたらと思います。これ、ここ数年何度も言っていますが、果たせていないですね。頑張ります。

 

何事も長続きしない性分なのですが、7年という短くない時間、やめずに続けてこられてよかったです。これからも細々と、粛々と、続けていきたいと思います。

よろしければお付き合いください。

 

 

20201218

仙台へ向かう新幹線の中、窓の外を流れる景色をずっと見ていた。田畑と街とが繰り返される。はかったように同じ高さの民家が並ぶ地帯にさしかかると、空が開けて遠くの山々が目に入る。山は頂きに前日の雪をかぶっており、その上にはさらに不穏な雲が浮かんでいた。また雪になるのだろうか。


そんなことを思っているうち、次第に空はとりどりの建物に遮られ始め、街並みは賑わいを見せてきた。車のディーラー、部品屋、大型スーパー、ドラッグストア。マクドナルドをはじめとしたファストフード店ファミリーレストランが立ち並ぶ。どこかふるさとに似た景色だ。日本中のどこにでもある、地方都市の街並み。


窓をすべっていくそれらを見送っていると、ラブホテル街にさしかかった。看板は褪せて文字が読みにくくなっている。何とか読み取ろうとしたら、ラブホテルの隣に葬儀場が建っているのが見えた。

二枚重ね着したヒートテックのインナー、ヒートテックレギンスにヒートテックソックス、と内側を完全防備した上、持っている中でいちばん厚いセーターを着たので車中は暑かった。血行がよくなったせいで太ももがかゆくてむずむずした。


仙台へ向かったのはceroのライブのためだった。コロナの影響もあり今年はceroのライブに行けなかったため、思い切って遠征することにしたのだ。

仙台に着くなり、駅で牛タンの駅弁を買う。ホテルにチェックインして、ビジネスホテル特有の狭い机でもそもそとそれを食べた。


ライブハウスの床は、一人分のスペースが白いテープで区切られており、パイプ椅子がその真ん中に据えてあるという形式。席数は密を防ぐため数えられるくらいに抑えられていた。

四角に区切られた床でしか踊れなかった時のことを、いつかあんなこともあったねと言えるのだろうか。ライブ中、ふと足元を見ると不安で胸がふさぎ、足が止まりかけたので、ひたすらステージを見た。ライブは、その素晴らしさを語る言葉を持たないのが恥ずかしいほどによかった。


ライブハウスからの帰り道、世界は大きく様変わりしてしまったが、好きな音楽と、好きな音楽を求める心は全く変わっていないことを改めて思った。ステージのライトが希望の灯火みたいだった。目の前で繰り広げられる演奏、しびれるような音楽体験。曲目は知っているはずなのに、それはいつでも新しく胸に響く。ceroの音楽は聞くたびに新しく変化しているのに、ceroという存在は自分を待ってくれているふるさとのようだと思った。ここに戻ってくればあたたかな幸福に包まれるという安心感があった。


ふるさとと言えば、誕生日に親友からもらった手紙に、わたしの顔を見るとほっとする、というありがたい言葉とともに、こんなことが書いてあった。

「人の故郷とかふるさとって、実際に生まれた街や、そもそも場所ではなくて、人との関係の中にあると思う」

わたしもまさにそうだと思う。


わたしの「ふるさと」は、あちこちにある。心はどこにでも帰ることができる。足を運んだり実際に会ったりという体験はもちろん鮮やかだが、たとえそうできないとしても、「ふるさと」は確かに存在する。その事実がわたしを支えてくれることに気付いた。

今年は思うようにいかない現実に揺さぶられながら過ごしてきたが、会えなくても、行けなくても、わたしは大丈夫なんだと思った。


ホテルでジャイアントコーンを食べ、テレビのチャンネルをパチパチと回し、見るでもなく見てから、風呂に入り横になった。ライブの興奮のせいか、枕の硬さのせいか、眠りは一向にやってこなかった。東京へ戻ったら真っ先に自分のベッドでたっぷりと寝ようと思い、目だけを閉じた。

20191208

始発を待つホームで震えながら缶のコーンポタージュを買い、両手で包み込んで振り、頬にそっと当ててから飲んだ。缶の熱さに比べると中身は生温かい。案の定粒はほとんど出てこなかった。友人に、美味しかったよ、と言うと彼も同じものを買い、「意外とぬるいね」と同じようなことを言った。

ちょうど缶を捨てた時、さっきまでうしろのいすでいびきをかいて寝ていたインド系と思しき中年男性に、いきなり大声で何か言われた。思わず身をすくめたが友人が何度か「ホワッツ?」と訊き返すと「5時3分?」と言っているのが分かった。「ゴートゥーシナガワ、5時3分?」始発の時間を確認していたのだった。そうですよ、と答えると、「ありがと、サンキュー」と言いまた目を閉じた。5時3分まであと10分はあった。

やっとやってきた始発に乗り込むと、1歳くらいの子どもをベビーカーにのせた外国人の夫婦がいた。先ほどの中年男性が向かいの席に座り、子どもに向かい大きな声で「グッモーニン!」と笑いかける。空いた車内に響き渡る声に何となく気まずい空気が流れたが、男性はそれを無視しグッモーニンを繰り返す。外国人夫婦は困ったような顔で、首を振った。男性はグッモーニンをあきらめ、最後にひとつ子どもににっこりとしてから、目を閉じた。ほどなくして子どもが泣き始めた。

乗り慣れない京急の駅名は目に珍しいものばかりで、止まるたびに駅の表示を見た。立会川。鮫洲。青物横丁。新馬場。どこも面白い由来がありそうだが、疲れが勝り調べる気力は湧かなかった。これから仕事で大阪へ向かうという友人は、ぼんやりとした顔で正面を見続けている。俺、眠そう?と訊かれたので、「眠そうじゃないけど、この人寝てないなって感じの顔」と答えると、ヤバイなぁ、とつぶやいて膝にのせていたリュックにくまのできた顔をうずめた。

今年はおかしな年だった。無職になったり、離婚したり、救急車に乗ったり、引っ越したり、また無職になったり、文字にすると何だか壮絶だったような気がするのだが、たいていの日は凪いでいた。凪いでいた、とか言うと何かかっこいいが、ずっとだらだらしていて、案外平和だったのだ。起きる、ご飯を食べる、テレビを見る、寝る、ご飯を食べる、Twitterをする、風呂に浸かる、寝る。そういう日の次の日に離婚が成立したり、そういう日の夜に気が付いたら病院にいたりした。少しずつ何かが変化していって大きなできごとが起こるというより、だらだらの日々のアクセントのようにぽつ、ぽつ、と突然向こうからそれらがやってくるような感じだった。全て自分で招いたことで、考えればその結果にたどり着くことは分かりきっているのに、全部が思いがけないサプライズのようだった。わぁ、と驚きはしたがその感触はすぐ忘れてしまった。友人たちには、今年は大変だったねと労いの言葉をたくさんもらい、そのたびに心からありがたいと思ったが、その反面、そんなに大変だったかな、と思いもした。要は何も考えていなかったのだ。今年は、真剣に生きることを放棄していた。色々なことがあったのに、何もない年だったなぁ、とさえ思う。実際たいてい寝ていたのだが、ずっと眠っていたようだった。たくさんの人たちに不義理をし、迷惑をかけ、人生を休んでいた。31歳だ。相変わらず無職で、金はない。人の金で毎日暮らしている。

品川駅で友達と吉野家に入り、肉鮭定食を頼んだ。糖質制限中なので、久しぶりに白米を食べたが、こんな味だったかな、という感じだった。いま白米食べたら死ぬほど美味いんだろうなと思っていたので、こんなものか、と思った。友人が、同じ肉鮭定食を食べながら、唐突に「とう子ちゃんていま何歳だっけ」と言った。「31。今月の20日で32だよ」「え、今日じゃん」「はちにちじゃないよ、にじゅうにちだよ」「何だ」店を出た後、友人は、卵つけなくてもよかったわ、と言った。

品川駅に戻ろうとすると、スーツ姿の若い男女がぞろぞろと駅に向かうところだった。日曜だし、出社するにしてもまだ早い。「この人たちどこから来たの?今からどこ行くの?」と友人に訊くと「忘年会だよ」と言う。会社から離れて久しいのでそんなイベントのことはすっかり忘れていた。「新卒だから同期のみんなで盛り上がっちゃって三次会でカラオケオールとかしたんじゃないの」と吐き捨てるように言う。そんな経験があったのだろう。わたしにはなかった。

新幹線に乗る彼と別れ、山手線に乗り、買ったばかりの本を開いた。眠っている隣の女の子に寄りかかられながら、肩をすぼめて読みふけっていると、降りるべき駅をとうに過ぎていた。乗り換え案内でどこの駅なら乗り継ぎができるか調べ直し、また本を読みだす。あ、と思い顔を上げるとまたその駅を通り過ぎていた。あきらめて適当な駅で降りようと思い本を読んだ。そのうち夜が明け、疲れた夜の顔をひきずる人とさわやかな朝の顔をした人をまぜこぜに乗せた車両にさっと陽が差し込んできた。わたしは本を閉じて顔を上げた。ビルの隙間からのぼってくる太陽が見えた。

きれいだなぁ、と口に出しかけてはっと口を閉じた。今年はほとんど夜遊びをしなかったが、自分がクラブやライブハウスで朝まで遊んだ帰り道、空が明るくなる瞬間を見るのが好きだったことを思い出した。少しだけ何かが動いた感触があった。家から出て、好きな人たちに会って、夜が明けるまで踊って、電車に乗って、本を読んで、歩いて帰ろう。そういう日々を送ろう、とものすごく久しぶりに思った。

長い長い山手線の旅を経て最寄駅に着くと、もうすっかり朝だった。コートのボタンをしめ、人通りのない道を家に向かい歩いた。家に着いたら、まだ書かずにおいていた、親友への誕生日の手紙を書こうと思いながら帰った。

20190918

給食当番の子どもがかぶるような帽子に、金のハイライトの入った明るい茶髪を押し込み、大きなマスクにエプロンといういでたちで、兄は病室に現れた。

もともと大きな頭は給食帽で余計に際立っているし、目の下まであげたマスクは、同じく大きな顔にはいかにも窮屈そうだ。薄手のエプロン越しに、フリーダ・カーロの顔がプリントされた派手なシャツが透けていた。


とう子ちゃん、大丈夫? と問い、心配というより戸惑いを浮かべた目で兄が小さな丸椅子に腰かけたところで、若い看護師さんがカーテンをくぐり、面会に関する書類を書くよう兄にバインダーを渡した。「ここにご本人のお名前をお書きください」と指された欄に兄はなぜか父の名前を書き、「あっ、やべ」と言って、「ぐちゃぐちゃってして書き直していいですか?」と訊いた。何となく正式な感じのする書類の訂正を、ぐちゃぐちゃで済ませていいわけがない。二重線で消して上の空白に書いてください、と指示された兄は、今度はわたしの名前を記入した。さすがにあきれた様子の看護師さんに「あの、お兄さんのお名前を書いていただきたいんですが……」と言われ、兄はちょっと恥ずかしそうにしながら、新しい紙ください、と言った。
兄は決して非常識なわけではない。緊張していたのだ。隣のベッドからは、ひっきりなしに「お父さん、頑張ってね」「お父さん、〇〇が来たよ、起きて」と意識不明の男性を励ます家族の声が聞こえていた。「お父さん」の娘と思しき女性が、呪文のように、歌のように、よくなるよくなるよくなるよ~と繰り返していた。

兄は口を開けたまま、隣のベッドとの境にさがる薄い緑色のカーテンを見ていた。考え事をする時、口を開けるのは幼い頃からの癖だ。兄は、今年34になる。


兄がポケットからスマホを取り出したのとほぼ同時に、先ほどの看護師がやってくる。書いた書類の控えを兄に渡し、あくまで愛想よく、携帯電話の電源は切ってください、と言った。そして「お兄さんは、北海道にご旅行に行かれてたんですよね?」と言った。「いや、仕事でした」「でも、自由がきく仕事なので」という兄のうそを、わたしはぼんやりと聞いた。


前日の深夜には命の危機は脱していて、北海道にいた兄も、福岡に住む両親も、別にはるばるやって来る必要はなくなっていた。兄が仕事の予定を無理に変え、朝一番の飛行機でやってきたのだと母から聞いたのは、退院してしばらく経ってからだった。

兄が何か言いかけた時、また看護師がやってきた。「中島さんが退院する時に着る服を用意していただきたいのですが、できますか?」と言う。兄はこの後、病院から仕事へ直行せねばならなかった。夕方には母が来ることになっていたが、生まれも育ちも田舎の母は、わたしの家へ行き必要な服をとってくることはおろか、ひとりで東京で買い物をすることなんてできない。「こちらに運ばれた時に着ていた服は、処分されてしまったんですか。白い、宇多田ヒカルのTシャツを着ていたと思うんですけど、胸に英語の書いてある……パンツはグレーのペイズリーの、ゆるっとしたイージーパンツで」と言うと、看護師さんは、枕元に置かれた紙袋をのぞいた。「柄のゆるゆるのズボンはありますけど、Tシャツはないですね、黒いタンクトップと、あと腹巻きはありますけど」と、薄く笑いながら、びよんびよんに伸び切ったわたしの愛用の腹巻きを見せてくれた。

看護師が出て行ったあと、「宇多田のTシャツ気に入ってたのに、捨てられちゃったのかなぁ」とこぼすと、兄は「勝手に服捨てるとかあんの?」と驚いた。「何か医療ドラマとかで、救急車の中で服切ったりすんじゃん」「えー、そんなことある?」「うーん、分かんない」と言うと、兄は急にうつむいて黙り込み、エビアンのボトルを手の中でくるくるしながら、「薬を飲んだ時のことは覚えてるの?」と言った。


精神科で処方された薬をたくさん飲むのは、ここのところ半ば癖のようになっていたが、生まれてこの方、死のうとか死にたいなんて考えたことは一度もなかったので、いちばん驚いていたのはわたしだった。

薬物の過剰摂取なんていうのはいわゆる自傷行為の中では遊びみたいなもので、ヤバそうな薬を100錠単位で飲んだりしない限り死ぬなんてまずありえないし、特に大きな健康被害もないと思っていた。いつもより早めに眠くなったり意識がふわふわするだけ。いろいろなことを考えるのが面倒になった時に、いっちょやってみっかと、飲み忘れてたまってしまった薬を飲んでいただけだった。その日も、何とはなしに薬をテーブルの上にあれこれと並べて、するすると飲んでベッドにもぐりこんだところまでは覚えているのだが、そこからの記憶がはっきりしない。雨で濡れたアパートの廊下に寝ていて寒かったこと、たまたま通りかかった隣人らしき男性が救急車を呼んでくれたこと、そのうち大勢の人がやってきて、てんやわんやして気付いたら病院にいたこと……と記憶がとびまくっている。でも、一生懸命頭を働かせたら、アパートの廊下で救急車を待つ間、誰かが濡れた肩から柔らかい布をかけてくれた感触を思い出した。宇多田のTシャツなんて着ていなかったのだった。


兄は、それ以上何も聞くことなく、最近自分の身の回りで起きた愉快な話や愉快でない話をした。非日常的な空気に慣れてきたのか、もともとの饒舌にエンジンがかかり始め、先日映画に関する仕事をしてどうこう、という話になった後、「俺、ディカプリオならまじ好きなんだけど、ディカプリオ以外よく分かんないんだよね」と言い出した。じゃあ、タランティーノの新作は観た? ブラピと共演してるやつ、と言うと、何それ? と首をかしげる。好きなんじゃないのか。「じゃあ、これまでの作品で何が好きなの」と訊くと、「何か世界がぐちゃぐちゃになるやつ」「インセプション?」「あと、熊殺して中に入るやつ」「レヴェナントだと思うけど、中に入るのは馬だよ。熊は襲ってくるんだよ」「あとは金持ちのやつ」「ウルフ・オブ・ウォールストリートかな、ドラッグとセックスばっかのやつじゃない?」「違う、金持ちが島にいてパーティーとかするやつ」わたしは華麗なるギャツビーをそんな風に形容する人間に初めて会った。これまで、もし金持ちになったら都心に広いマンションを買って遊んで暮らそうと思っていたが、兄の言葉を聞いたら、島に住んでパーティーをしてみたくなってしまった。わたしは作中、ギャツビーがデイジーに色とりどりのシャツを次々に投げるシーンがいちばん好きだ。それもやってみたい。実現可能かどうかは置いておくとして、具体的にしたみたいことが目の前に浮かんだ途端、急に心がほどけて明るくなった。好きな人に、自分が高い金で買ったきれいなものものを見せるなんて、何て切実でかっこ悪くていとおしい愛情表現なのだろう。わたしはこれまでそんな風にみっともなく、誰かに愛情を示そうと思ったことがあっただろうか? 手元にタンクトップとイージーパンツとだるだるの腹巻きしかないことが、心底悔やまれた。


仕事に向かう時間がきて兄は帰り、ほとんど入れ替わりで母がやってきた。

母は比較的冷静だった兄とは対照的に、わたしの顔を見るなりさめざめと泣いた。どうしてこんなことをしたの、お母さんの顔が思い浮かばなかったの? わたしもうこんなことごめんだから精神病院に入院するか福岡に帰ってきて一緒に住んで、と早口で言った。せっかくお兄ちゃんと話して楽しい気分になれたのに、と思った。
精神的に健康でない自分に「自分は今こういう状況にあり、こう感じてこう考えているからこうしたくてこうしました」なんてことが分かっているわけがないし、まして説明なんてできるわけがない。大嫌いなくそ田舎を出て憧れの東京に出てきて何とかかんとか10年やってきたのに、今更福岡に住むくらいならそれこそ死にたかった。わたしは母の言葉をことごとく無視した。すると母は身を乗り出してわたしの顔を覗き込み、再度「お母さんの顔が思い浮かばなかったの?」と訊いた。「何で思い浮かぶと思うの?」と言うと、うっ、とうめいて顔を覆い、声を出さず泣いた。


退院して家に戻ると、大勢の人が踏み入ったせいで部屋はぐちゃぐちゃになっていて、覚えのない吐しゃ物がそこここに小さな池をつくっていた。病院で寝たきりだったせいでがくがくと震える体で、汚れたシーツをはぎとり、洗濯機へ放り込み、裸のマットレスに倒れこんで目を閉じた。ナースコールとうめき声と泣き声がひっきりなしに聞こえたせいで、耳の中でずっと誰かが話している声が聞こえていた。それはなぜか、いらっしゃいませこんにちはー、少々お待ちくださーいという若い女の声だった。まだラリってるのかな、と思った。ふと脚を見るとこれまた覚えのない大きな痣が数えきれないほどできていて、真っ黒の太いすね毛がチンアナゴのように毛穴から次々と伸びてきているところだった。やっぱりまだ薬が体にあるのだ、と思いながら、吐しゃ物を片付けなければ、と目をやると、ソファに座った母が背中を丸め、小さな声で、一生懸命育てたのに、言った。
翌日の便で母とふたりで福岡へ帰るために、父が泉岳寺にホテルをとってくれていたが、Twitterを見たら例の事故で電車が止まっていた。テレビをつけ、「ひどい事故で電車止まってるよ」と言うと母はパニックになり、どうすればいいの? 中央線なら行けるの? いつになったら動くの? 明日帰れるの? と言う。「ここにも泉岳寺にも中央線なんて通ってないよ」と答えると、急激に頭が痛くなってきた。「体調が悪いから今日は動けない。とりあえず駅に行ってどうすればいいか駅員に聞いてみて。何日かしたらわたしも追いかけて帰るから」と伝えて、頭痛薬を飲み横になった。当然母は渋り、押し問答になったが、ひどく具合が悪そうなわたしの姿を見て、分かったから絶対に帰ってきてね、約束してね、と言って荷物をまとめた。母は脚が悪く10分以上は歩けない。最寄り駅までの道のりは12分だ。わたしのアパートは郊外にあり、タクシーなど通らないので、頭痛をこらえて電話をした。5分くらいでアパートの前に来るから、と母に伝えると、「アパートの前ってどこ? どこで待ってればいいの?」と困った顔をする。前述の通り足腰が弱っていたため階段をくだるのも一苦労だったが、手すりに体を預け、ぜえぜえと息をし、汗だくになって一緒に待った。
タクシーは本当に5分ほどで来た。「〇〇駅までって言うんだよ」と声をかけると、母はうん、と生返事をして、近づいてくる「迎車」のタクシーを見ながら、「救急車の人って、クーラーも電気も消してくれないんだね」と言った。来た道を引き返して行くタクシーを見ながら、わたしは絶対に福岡には帰らないと決めた。

20190309

最近、ふとしたことから、10代から20代にかけて割と長く付き合っていた元彼氏の奥さんのTwitterアカウントを見つけてしまって、よくないと思いつつ時々見ている。いや、よくなくないのかもしれないけど、気持ち悪いのは間違いない。わたしだったら間違いなくひく。だって彼と別れてから、もう10年くらい経つし、向こうには子どもだっている。

奥さんとは3年くらい前に一度顔を合わせたことがある。遊びに行ったイベント会場にたまたま元彼氏と奥さんも来ていて、ご丁寧に元彼氏が紹介してくれたのだ。大学の後輩の中島です、と言うと、元彼氏が遮るように「とう子ちゃんのことは話してるから」と言った。何を? どんな風に? と思うと顔がひきつった。奥さんも居心地が悪そうにしていた。


彼女のつぶやきは、得意な料理のことと、息子の育児のこと。わたしはドキドキしながらスマホの画面をスクロールしたけど、途中でやめてしまった。退屈だったのだ。あまりにも平凡で、ありきたりなつぶやき。わたしはがっかりしていた。君の個性的で変わったところが好きだと言っていた人が、どこにでもいそうな良妻賢母タイプの女性と結婚している。彼の求めていた個性とは何だったのか? 彼に飽きられないよう、本当は平凡だとバレないよう、背伸びをしていた自分の努力は何だったのか。

そして何より、敗北感でいっぱいだった。わたしは結婚に失敗し、子どもを産む気も全くなく、家事もできない。もしそうでなかったら、わたしも選ばれていたのだろうか? 良妻でも賢母でもないわたしは、この先も誰にも選ばれないかもしれないと思うと、絶望的な気分になった。

でも同時に、優越感のようなものも抱いていた。ふたりが普通の結婚をして普通の幸せの中に身を置いている間、わたしはひとりで山ほど楽しいことをした。たくさんの男の子と遊んだし、朝まで踊って、きれいなものを見に行って、好きなバンドを追いかけた。夏のはじめに映画館で朝を迎えて、伸びをしながら、カラスと仕事終わりのホストしかいない道を歩いて、マクドナルドで朝ごはんを買い、遠回りをして、ぱりっとした青い空と冷たい空気を、自分だけのものみたいに吸い込んで歩いて帰った。そういうわたしだけの朝や夜を大切に積み重ねた。ひとりで、誰にも気兼ねせず。そんなことあなたたちはしてこなかったでしょう? わたしはたくさん失敗もしたけど、山あり谷ありでおかしい人生を送っていると思う。あなたたちはどう?


そんな風にけちをつけて、つまらないとか何とか言いながら、何だかんだTwitterを時々覗き見ることは続けていたのだが(気持ち悪い)、今日、奥さんがブログを更新したというつぶやきをしているのを見つけたので、ふうんブログやってるのね、と読んでみた。育児に悩んでいるという内容だった。

息子が感じやすい子で、いつもスムーズに保育園に行けないこと。よくギャン泣きしてしまうこと。余裕を持てず彼をついつい怒ってしまうこと。多忙な夫にいつも頼れるわけではなく心細いこと……言葉の端々から、なぜ自分がありのままの息子を受け入れてあげられないのか、子育てに自信を持てないのか、思慮を重ねに重ねた跡が見てとれた。

読み終わった時、良妻賢母というレッテルははがれていた。飾り気がなく、しかし丁寧な文章から、葛藤や愛や自責の念や苦しみのひとつひとつが、生々しく伝わってきた。真摯に息子をまなざす様が、目に浮かんだ。この人は平凡ではない。彼女固有の感情を持つ、血の通った、この世にたったひとりの人間だ、という当たり前のことに気が付いた。


そしてわたしは、自分が無意識のうちに、結婚し家庭を持っている女性は平凡でつまらない、自由に生きる独身の女性は面白い、という安直な二元論をとっていることにも気付かされた。普段自分を苦しめている分断は、自分自身がつくっていたのだ。女性の生き方を規定する社会の声に常に怒りを覚えつつ、自分の内部にある強い固定概念には全く気付いていなかった。バカすぎて、恥ずかしい。穴があったら入りたかった。

人生が面白いとかつまらないとか言うのも、くだらないことだなと思う。そんなことは誰にも決められないし、連なっていく日々の営みの前では重要ではない。


わたしが彼と結ばれなかったのはほとんど縁とか運とかそういうもののせいだと思うけど、何か自分に原因があるとしたら、ものやひとを偏見で色分けしたり決めつけたりしてすぐに優劣をつける浅はかさと傲慢さではないかと思った。そして彼の奥さんの素敵なところは、まっさらな気持ちで自分と向き合い、それを言葉にできる素直で誠実なところなのではないかとも。(これもやっぱり決めつけに近い想像なのだけど。)


元彼氏が素敵な女性と結婚したことを、うれしく思う。何かこう、人生に運命の巡り合わせみたいなものがあって、もしもわたしと出会ってなかったら奥さんと出会って結婚してなかったみたいなスピリチュアルな可能性があるとしたら、彼と出会って別れてよかったなと思う。ナイスアシストわたし、と思う。そう考えたら、やっと呪縛から解放された気になった。15歳の時に出会って、それから別れて何年も経つまでずっと彼のことが好きで、彼と結ばれなかったことが、恋愛の大きな失敗体験として今の今まで心に残っていたけれど、もう失敗したと思うのはやめよう、と思った。意味はあったのだから。今がいいのだから。

彼と会う機会はともかく、さすがにもう奥さんと会うことはないと思うけど、心の中でとても尊敬しているし、ふたりの息子が元気よく保育園に行けるといいなと思う。気持ち悪いかもしれないけど。わたしも元気よく会社に行けるように、その前に行く会社が見つかるように、頑張らなければならない。みんな、幸せでいてほしい。幸せでいよう。

20181012

駅へ向かう夜道、あたりが暗いせいで電車の窓のあかりだけが目の先の橋をたたたた、と横切って、月並みだけど、空を走っているようだと思う。

終電間際の電車はガラガラだった。みんなこんな時間にどこに行くのだろう、と考えて、出かけるのではなく帰る人もいるのか、と思い当たる。正面に座る女の子は首を垂れて膝に抱いた黒いリュックに顔を埋めていた。出かける人には見えない。

女の子はぱっと顔を上げ、すごい速さでスマホを操作し始めた。マスクをしていてよく分からなかったが、わたしより年上に見えた。切りっぱなしの加工がしてあるデニムのスカートの下に、厚いタイツを履いていて、そんな季節が近付いているのかと驚く。わたしは暑がりで汗かきなので、季節の変わり目がよく分からない。そのせいかよく風邪をひく。昨日、友だちとマヌカハニーは高すぎるという話になり、「風邪なんて一年に一、二度とひくくらいなのに、割高だ」と言うので驚いた。ひとつの季節に、の間違いではないかと思った。体が丈夫な人が心底うらやましい。

持病で飲んでいる薬の副作用で、以前から手が震えることがあったのだが、最近それがひどくなっている。まっすぐ字が書けない。箸で細かいものをつまむのが難しい。普段、特別きれいな字を書かなければならない機会も、人前で食事をする機会もあまりないけど、昨日知らない人たちの中に混ざって食事をする機会があって、初めて会った人にやはり手の震えを指摘されてしまった。

初対面で太っている人に太っていますねと言う人はあまりいないのに、手が震えている人に手が震えていますねと言う人が多いのは、たぶん震えが緊張とか興奮とか、そういう心の単純で、かつ強い動きと結びついたものだと思われているからだろう。どうしてそんなにドキドキしているの? という素朴な疑問、そんなに緊張しなくていいのに、という気遣い。でもどういう意図であれ、だいたいの場合笑いを伴って発せられる「手、震えてるよ」は、一日の終わりに影を落としたりする。

丈夫な体と、丈夫でない体を恨まない丈夫な心がほしい。

駅に着き、階段を降り、ほんの一ヶ月前までよく乗っていた地下鉄に乗り換える。かつてわたしたちの家だった、夫の家に向かっている。わたしたちは明日、和歌山へ行く。最後の旅行だ。数分後どんな顔をして夫に会い、帰りの空港でどんな顔をして別れればよいのか分からないが、仮に分かっていても思う通りにできないということは分かった。

二つ前の駅で乗り込んできて斜め前に座った三人の酔った男たちの大声に、わたしの向かいの男がいらだちを隠せないでいる。三人の話は続いたが、何を言っているのかはさっぱり分からなかった。駅に着き車両を降りる間際、ひとりが「ナガノさん!」と叫んだのだけは聞きとれた。

20181011

以前、通勤電車がなかなかいいものだとここに書いたが、何回かの乗換の途中、快適でない区間がある。尻に触れているのが人の手なのか鞄か何かなのか判断がつかないし、それ以前に四方を人に囲まれ、顎を上げ気味に呼吸しなければならなかったり。今朝、尻の左側に何か当たっていて、これは人の手だな、と確信しキッと振り返ったら女性の傘の持ち手が当たっていただけだった。女性は申し訳なさそうな顔で、すいません、と傘を引っ込めた。わたしも謝った。


乗り換えて乗り換えて、最後に乗る電車はさほど混んでいない。

目の前に座る女性が、膝に女の子を乗せ、絵本を見せていた。読み聞かせはしていなかった。一定の時間を置いて、ぺらり、ぺらり、とページをめくっていた。女の子は「まだめくらないで」とぐずることもなく、黙って絵本に視線をやっていた。3、4歳くらいに見えた。文字のない絵本だったのかもしれない。


眉が八の字だった。機嫌が悪そうな様子ではなかったので、生まれつきそういう風に生えているのだろう。ぱっちりした二重の目がどこか眠そうに見えるのはそのせいなのか、実際に眠いのか、分からなかった。上品な紺色のワンピースを着て、靴下は水色。白とピンクの靴は座席の下に揃えてあった。髪が細く、くせ毛だった。


母親はダイヤで縁取られた時計、左手の薬指には同じくダイヤがちりばめられた指輪、右手の薬指には金の指輪をしていた。かたちのいいシャツからも裕福なのは明らかだったが、暗い茶色に染められた髪の毛は女の子と同じようにうねって、細い髪がところどころ飛び出たままで、それがかえって良く見えた。


女の子がわたしの手元にやっているのに気付き、顔を見るとすぐ目をそらされた。子どもに好かれないのは自覚しているのでさして傷つかなかったが、ではなぜ女の子がこちらを見ているのか、と考えスマホのケースに貼られたパンダのシールを見ているのだと思い当たる。わたしはパンダがよく見えるようにスマホを持つ手を少しずらした。そっと女の子の顔を覗き見ると、もうこちらを見てはいなかった。


途中、どっと人が乗り込んでくる駅がある。停車すると、いらだちがスーツを着て歩いているみたいな男性が辺りかまわず体をぶつけて車両の奥へ進んで行き、押されて母娘は視界から消えた。もうちょっと見ていたかった、と思った。


わたしの降りる駅に着き、母娘が座っていた座席に目をやると、二人はもう降りてかわりにくせ毛の男性が座っていて、くせ毛に縁がある日だと思った。世のくせ毛の人たちは今日の湿気を恨んだかもしれないけど、うねる髪はそれぞれが飼っている生き物みたいで、かわいかった。もしも周りにくせ毛で悩んでいる女の子がいたら、素敵だからストレートパーマなんてかけなくていいよと余計なことを言ってしまいそうだから、そういう子がいなくてよかったとも思った。

20181006

部屋のフローリングの上に腹ばいで寝るコツメカワウソの頭を、爪の長い指が撫でる動画を見ていた。額を前から後ろへ撫でる指が、時々小さな耳の上を通る。そのたびにぴこ、と動く耳が、独立した動物のようでいとおしい。耳はぴこぴこ動くのに、気持ちよさげに眠っているゴンタくんが目を覚ます気配はない。


テレビの中ではメドベージェフと誰かがテニスをしている。屋内のコートで、ボールを打つ音が反響していて、その上に解説の松岡修造の抑えた声が重なる。


テーブルの上には3万円と、10月始まりのカレンダーと、のど飴とミネラルウォーター、ニキビの薬とコンタクトケースが、見ようによっては静物画っぽい構図で並んでいる。わたしはグレーのTシャツを着て、あとは下着だけ。一日中外にいて汗ばんで気持ち悪いので、脚を自由にしたかった。と、書いているうちにメドベージェフの対戦相手がスーパーショットを打った。


毎日、人生思い通りにならないことの方が多い、というか、思い通りになることなどあるのか、と感じながら過ごしているけど、わたしは今日野外で行われた音楽イベントへ行き、好きなアーティストの演奏をほぼ最前列で観て、友だちと話をして、フランクフルトを食べて、好きなアーティストと写真を撮ってもらった。自分で決めてそうした。

イベントが終わったあと、気持ちはまだ遊びたがっていたけど、体のことを考えてすぐに帰った。自分の体の調子を把握できるようになったのは、ここ数年のことで、把握した上で何をやって何をやめておくか判断できるようになったのは、つい最近のことだ。今ソファで、無理をしないでよかったと思っている。いい選択をしたあとは気持ちがよくなる。いい選択を重ねるのは、それがたとえ些細なことでも、自分をかたちづくるために重要なことだと思う。


イベントの最中に、祖母から二度電話がかかってきた。母ともめて、連絡がとれなくなってしまったので代わりに連絡をとってくれという電話だ。母はわたしからの連絡も拒否していて、全く連絡がつかない。祖母にはそのことも伝えているのだが、ここ数日で同じ電話をもう10回以上受けていた。祖母は、不安で具合が悪くなりそうだと言う。わたしは内心、そんなこと知らない、と思う。直接関係ないことには巻き込まれずに生きていきたい。複雑な愛憎からは距離を置きたい。固定資産税や相続税のことなど、考えたくもない。血の繋がっている人たちと、適度に希薄な関係でいたい。しかしどうあっても何かしらの関係が発生してしまうのが家族だ。家族がいなければ自分はないが、そんな厄介な集団には属したくないという気持ちもある。そういう気分と関係はないだろうけど、わたしは近く離婚する。


そうこうしているうちに1時になるので、そろそろ寝る準備をしようと思う。明日の午前中にはネットで買ったスカートとニットと椅子が届く。午後には美容院で髪を染める。色合いは美容師にまかせる。もう10年、髪のことをすべて預けてきた人だ。わたしは彼女を信頼することを選び、彼女は毎回わたしの髪について様々なことを選んでいる。


みんな、毎日数え切れないほどの事柄について、他のすべての選択肢を捨ててひとつを選ぶことを繰り返している。捨てているものの多さを考えて、叫びだしたくなることもあるし、開放されたような気になることもある。今はたまたま、開放されたような気分だ。


1時を過ぎてしまった。メドベージェフの試合も終わった。ストレート勝ちだ。これから化粧を落とし歯を磨きシャワーを浴び、睡眠薬を飲んでベッドに入る。できれば朝まで眠りたい。

20180927

何の前触れもなく静かに電車が止まり、何事かと窓の外をよくよく見ると、並走する電車が同じ速度で走っているので止まったように見えただけだった。

ふたつの電車の速度は徐々にずれ、窓の外を人々が流れていく。

マスクをした背の高いスーツの男性、赤い抱っこひもの中に子どもを抱く女性、窓に押し付けられ窮屈そうにスマホをいじる若い男性。


地上を走る電車に乗るのは久しぶりだ。今月の半ばに引っ越して、使う路線が変わった。新しく住んでいる街は、不動産屋で物件情報を見るまで、名前を聞いたこともなく、どこにあるどんな街かも分からなかった。

内見もせず決めたので、入居の直前、初めて駅に降り立った時に目にしたパッとしない風景に、不安と後悔を感じずにはいられなかった。果たしてこの街を好きになれるのか。わたしはパッとしない田舎でパッとしない育ち方をし、きらびやかな東京に憧れて遥々上京してきたのではなかったのか。閑散としたマクドナルド、狭苦しいドラッグストアに100均、やっているのかいないのかも分からない、ウィンドウが黄ばんだ何かの店、何だか美味しくなさそうなパン屋。


しかし住めば都とまではいかないが、いいところもまぁ見つかりつつある。そのひとつが、陽の入る電車に乗れることだった。人がいて、建物があり、道があり、乗り物が走り、街が息をしている。それを毎朝、眼下に見る。陳腐な言い方だが、生きていると感じる。生活を営んでいるという実感がある。わたしも、わたし以外の人々も。

この車両にいる人もいない人も、みな同じく、しかし別々の固有の命を生きている。そういう個々人の人生があるのだということは、マジョリティだとかマイノリティだとか、その違いを尊重するべきとかべきじゃないとか以前に、単なる事実だ。事実を見た時、心はしんと静かになる。無駄な装飾はすべて消え、わたしの中にひとつの思いだけが残る。命は誰のものでもなくそこにあるだけだ。静かにその言葉が響く。その小さな音は、田舎で憧れていた東京の喧騒や夥しい情報とは似ても似つかないものだが、しかし同じものだ。


明日もわたしは電車に乗る。何てことのない街を見る。その風景はどこにでもある、どこにもないものでつくられている。この街を愛せるかどうかはまだ分からないが、ここが今わたしがいる場所であることは、確かな事実だ。