母さん助けて日記

母さん助けて詐欺のない世界を祈りながら綴る日記+α

20181012

駅へ向かう夜道、あたりが暗いせいで電車の窓のあかりだけが目の先の橋をたたたた、と横切って、月並みだけど、空を走っているようだと思う。

終電間際の電車はガラガラだった。みんなこんな時間にどこに行くのだろう、と考えて、出かけるのではなく帰る人もいるのか、と思い当たる。正面に座る女の子は首を垂れて膝に抱いた黒いリュックに顔を埋めていた。出かける人には見えない。

女の子はぱっと顔を上げ、すごい速さでスマホを操作し始めた。マスクをしていてよく分からなかったが、わたしより年上に見えた。切りっぱなしの加工がしてあるデニムのスカートの下に、厚いタイツを履いていて、そんな季節が近付いているのかと驚く。わたしは暑がりで汗かきなので、季節の変わり目がよく分からない。そのせいかよく風邪をひく。昨日、友だちとマヌカハニーは高すぎるという話になり、「風邪なんて一年に一、二度とひくくらいなのに、割高だ」と言うので驚いた。ひとつの季節に、の間違いではないかと思った。体が丈夫な人が心底うらやましい。

持病で飲んでいる薬の副作用で、以前から手が震えることがあったのだが、最近それがひどくなっている。まっすぐ字が書けない。箸で細かいものをつまむのが難しい。普段、特別きれいな字を書かなければならない機会も、人前で食事をする機会もあまりないけど、昨日知らない人たちの中に混ざって食事をする機会があって、初めて会った人にやはり手の震えを指摘されてしまった。

初対面で太っている人に太っていますねと言う人はあまりいないのに、手が震えている人に手が震えていますねと言う人が多いのは、たぶん震えが緊張とか興奮とか、そういう心の単純で、かつ強い動きと結びついたものだと思われているからだろう。どうしてそんなにドキドキしているの? という素朴な疑問、そんなに緊張しなくていいのに、という気遣い。でもどういう意図であれ、だいたいの場合笑いを伴って発せられる「手、震えてるよ」は、一日の終わりに影を落としたりする。

丈夫な体と、丈夫でない体を恨まない丈夫な心がほしい。

駅に着き、階段を降り、ほんの一ヶ月前までよく乗っていた地下鉄に乗り換える。かつてわたしたちの家だった、夫の家に向かっている。わたしたちは明日、和歌山へ行く。最後の旅行だ。数分後どんな顔をして夫に会い、帰りの空港でどんな顔をして別れればよいのか分からないが、仮に分かっていても思う通りにできないということは分かった。

二つ前の駅で乗り込んできて斜め前に座った三人の酔った男たちの大声に、わたしの向かいの男がいらだちを隠せないでいる。三人の話は続いたが、何を言っているのかはさっぱり分からなかった。駅に着き車両を降りる間際、ひとりが「ナガノさん!」と叫んだのだけは聞きとれた。

20181011

以前、通勤電車がなかなかいいものだとここに書いたが、何回かの乗換の途中、快適でない区間がある。尻に触れているのが人の手なのか鞄か何かなのか判断がつかないし、それ以前に四方を人に囲まれ、顎を上げ気味に呼吸しなければならなかったり。今朝、尻の左側に何か当たっていて、これは人の手だな、と確信しキッと振り返ったら女性の傘の持ち手が当たっていただけだった。女性は申し訳なさそうな顔で、すいません、と傘を引っ込めた。わたしも謝った。


乗り換えて乗り換えて、最後に乗る電車はさほど混んでいない。

目の前に座る女性が、膝に女の子を乗せ、絵本を見せていた。読み聞かせはしていなかった。一定の時間を置いて、ぺらり、ぺらり、とページをめくっていた。女の子は「まだめくらないで」とぐずることもなく、黙って絵本に視線をやっていた。3、4歳くらいに見えた。文字のない絵本だったのかもしれない。


眉が八の字だった。機嫌が悪そうな様子ではなかったので、生まれつきそういう風に生えているのだろう。ぱっちりした二重の目がどこか眠そうに見えるのはそのせいなのか、実際に眠いのか、分からなかった。上品な紺色のワンピースを着て、靴下は水色。白とピンクの靴は座席の下に揃えてあった。髪が細く、くせ毛だった。


母親はダイヤで縁取られた時計、左手の薬指には同じくダイヤがちりばめられた指輪、右手の薬指には金の指輪をしていた。かたちのいいシャツからも裕福なのは明らかだったが、暗い茶色に染められた髪の毛は女の子と同じようにうねって、細い髪がところどころ飛び出たままで、それがかえって良く見えた。


女の子がわたしの手元にやっているのに気付き、顔を見るとすぐ目をそらされた。子どもに好かれないのは自覚しているのでさして傷つかなかったが、ではなぜ女の子がこちらを見ているのか、と考えスマホのケースに貼られたパンダのシールを見ているのだと思い当たる。わたしはパンダがよく見えるようにスマホを持つ手を少しずらした。そっと女の子の顔を覗き見ると、もうこちらを見てはいなかった。


途中、どっと人が乗り込んでくる駅がある。停車すると、いらだちがスーツを着て歩いているみたいな男性が辺りかまわず体をぶつけて車両の奥へ進んで行き、押されて母娘は視界から消えた。もうちょっと見ていたかった、と思った。


わたしの降りる駅に着き、母娘が座っていた座席に目をやると、二人はもう降りてかわりにくせ毛の男性が座っていて、くせ毛に縁がある日だと思った。世のくせ毛の人たちは今日の湿気を恨んだかもしれないけど、うねる髪はそれぞれが飼っている生き物みたいで、かわいかった。もしも周りにくせ毛で悩んでいる女の子がいたら、素敵だからストレートパーマなんてかけなくていいよと余計なことを言ってしまいそうだから、そういう子がいなくてよかったとも思った。

20181006

部屋のフローリングの上に腹ばいで寝るコツメカワウソの頭を、爪の長い指が撫でる動画を見ていた。額を前から後ろへ撫でる指が、時々小さな耳の上を通る。そのたびにぴこ、と動く耳が、独立した動物のようでいとおしい。耳はぴこぴこ動くのに、気持ちよさげに眠っているゴンタくんが目を覚ます気配はない。


テレビの中ではメドベージェフと誰かがテニスをしている。屋内のコートで、ボールを打つ音が反響していて、その上に解説の松岡修造の抑えた声が重なる。


テーブルの上には3万円と、10月始まりのカレンダーと、のど飴とミネラルウォーター、ニキビの薬とコンタクトケースが、見ようによっては静物画っぽい構図で並んでいる。わたしはグレーのTシャツを着て、あとは下着だけ。一日中外にいて汗ばんで気持ち悪いので、脚を自由にしたかった。と、書いているうちにメドベージェフの対戦相手がスーパーショットを打った。


毎日、人生思い通りにならないことの方が多い、というか、思い通りになることなどあるのか、と感じながら過ごしているけど、わたしは今日野外で行われた音楽イベントへ行き、好きなアーティストの演奏をほぼ最前列で観て、友だちと話をして、フランクフルトを食べて、好きなアーティストと写真を撮ってもらった。自分で決めてそうした。

イベントが終わったあと、気持ちはまだ遊びたがっていたけど、体のことを考えてすぐに帰った。自分の体の調子を把握できるようになったのは、ここ数年のことで、把握した上で何をやって何をやめておくか判断できるようになったのは、つい最近のことだ。今ソファで、無理をしないでよかったと思っている。いい選択をしたあとは気持ちがよくなる。いい選択を重ねるのは、それがたとえ些細なことでも、自分をかたちづくるために重要なことだと思う。


イベントの最中に、祖母から二度電話がかかってきた。母ともめて、連絡がとれなくなってしまったので代わりに連絡をとってくれという電話だ。母はわたしからの連絡も拒否していて、全く連絡がつかない。祖母にはそのことも伝えているのだが、ここ数日で同じ電話をもう10回以上受けていた。祖母は、不安で具合が悪くなりそうだと言う。わたしは内心、そんなこと知らない、と思う。直接関係ないことには巻き込まれずに生きていきたい。複雑な愛憎からは距離を置きたい。固定資産税や相続税のことなど、考えたくもない。血の繋がっている人たちと、適度に希薄な関係でいたい。しかしどうあっても何かしらの関係が発生してしまうのが家族だ。家族がいなければ自分はないが、そんな厄介な集団には属したくないという気持ちもある。そういう気分と関係はないだろうけど、わたしは近く離婚する。


そうこうしているうちに1時になるので、そろそろ寝る準備をしようと思う。明日の午前中にはネットで買ったスカートとニットと椅子が届く。午後には美容院で髪を染める。色合いは美容師にまかせる。もう10年、髪のことをすべて預けてきた人だ。わたしは彼女を信頼することを選び、彼女は毎回わたしの髪について様々なことを選んでいる。


みんな、毎日数え切れないほどの事柄について、他のすべての選択肢を捨ててひとつを選ぶことを繰り返している。捨てているものの多さを考えて、叫びだしたくなることもあるし、開放されたような気になることもある。今はたまたま、開放されたような気分だ。


1時を過ぎてしまった。メドベージェフの試合も終わった。ストレート勝ちだ。これから化粧を落とし歯を磨きシャワーを浴び、睡眠薬を飲んでベッドに入る。できれば朝まで眠りたい。

20180927

何の前触れもなく静かに電車が止まり、何事かと窓の外をよくよく見ると、並走する電車が同じ速度で走っているので止まったように見えただけだった。

ふたつの電車の速度は徐々にずれ、窓の外を人々が流れていく。

マスクをした背の高いスーツの男性、赤い抱っこひもの中に子どもを抱く女性、窓に押し付けられ窮屈そうにスマホをいじる若い男性。


地上を走る電車に乗るのは久しぶりだ。今月の半ばに引っ越して、使う路線が変わった。新しく住んでいる街は、不動産屋で物件情報を見るまで、名前を聞いたこともなく、どこにあるどんな街かも分からなかった。

内見もせず決めたので、入居の直前、初めて駅に降り立った時に目にしたパッとしない風景に、不安と後悔を感じずにはいられなかった。果たしてこの街を好きになれるのか。わたしはパッとしない田舎でパッとしない育ち方をし、きらびやかな東京に憧れて遥々上京してきたのではなかったのか。閑散としたマクドナルド、狭苦しいドラッグストアに100均、やっているのかいないのかも分からない、ウィンドウが黄ばんだ何かの店、何だか美味しくなさそうなパン屋。


しかし住めば都とまではいかないが、いいところもまぁ見つかりつつある。そのひとつが、陽の入る電車に乗れることだった。人がいて、建物があり、道があり、乗り物が走り、街が息をしている。それを毎朝、眼下に見る。陳腐な言い方だが、生きていると感じる。生活を営んでいるという実感がある。わたしも、わたし以外の人々も。

この車両にいる人もいない人も、みな同じく、しかし別々の固有の命を生きている。そういう個々人の人生があるのだということは、マジョリティだとかマイノリティだとか、その違いを尊重するべきとかべきじゃないとか以前に、単なる事実だ。事実を見た時、心はしんと静かになる。無駄な装飾はすべて消え、わたしの中にひとつの思いだけが残る。命は誰のものでもなくそこにあるだけだ。静かにその言葉が響く。その小さな音は、田舎で憧れていた東京の喧騒や夥しい情報とは似ても似つかないものだが、しかし同じものだ。


明日もわたしは電車に乗る。何てことのない街を見る。その風景はどこにでもある、どこにもないものでつくられている。この街を愛せるかどうかはまだ分からないが、ここが今わたしがいる場所であることは、確かな事実だ。

20180130

この年末年始は、実家に帰らなかった。
正確に言うと、帰るつもりで飛行機のチケットをとっていたが、数日前にキャンセルをした。

母にメールでその旨を伝えると、すぐに電話がかかってきた。涙声だった。父を許してやってほしい、という話だった。


秋口に、離婚することになりそうだと伝えた時、父は「明日帰って来い」とだけ応えてぷつりと電話を切った。
わたしは慌てて飛行機のチケットを買って、翌日着の身着のままという感じで文字通り飛んで行った。しかし実際のところ、その時点ではさして危機感を抱いてはいなかった。多少叱られるだろうがそれで済むだろうと思っていた。それどころか、非日常的なトラブルにどこか高揚してさえいた。日焼け止めを塗り忘れたことに気付いて、途中からそればかり気にしていた。

しかし、駅の改札から父の車を見つけ、手を上げて近付いていくと、車のそばに立つ父の表情はかたく強張っていて、思っていたよりまずいことになりそうなのは一目瞭然だった。「いやいや〜離婚することになっちゃいました〜!」とおどけるプランも考えていたわたしは、もしそんなことをしていたら、と想像してぞっとした。
あぁ、とか何とか曖昧な挨拶をして車に乗り込み、それからふたりとも黙っていた。わたしは飲みかけのヘルシア緑茶のペットボトルがドリンクホルダーの中でかたかた揺れるのを見ていた。

家に入ると、父は「お母さんが帰ってきてから話し合おう」と言って、録画してあったのであろうテニスの試合を再生し始めた。わたしはソファに座って、それを見るでもなく見ていた。

ほどなくして、母がパートから帰ってきた。ダイニングテーブルにつき、わたしはふたりに事の顛末を説明した。
怒鳴られ、咎められ、諭され、怒鳴られ、そういった一般的なやりとりがひと通り行われた。きつい場面もいくつかあったが、まぁ想定の範囲内だった。あと少し耐えれば済む。最後にはいつものように「好きにしなさい」と言われるだろう。
しかし言葉の応酬が止まった後、父は考えもしなかったことを言い出した。
「お父さんはとう子ちゃんのことずっとそういう人間だと思っていたよ」
意味を図りかねているとこう続けた。
「とう子ちゃんは誰にも看取られずにひとりで死んで、部屋で腐ってからやっと気付かれるような、そういう死に方をする人間だと思ってきたよ」
そうして父は席を立ち、なぜか母が泣いて、「話し合い」は唐突に終わった。
わたしはぽかんとしていた。あ、わたしは侮辱されたのだ、と気付いたのは風呂の中でだった。お前は夫だけでなく世界中の誰にも愛されず、必要とされず、生きていることにさえ気付かれず、たったひとりで死ぬ、そういう人間だと言われたのだと。たかが離婚ごときで。

翌朝、うとうとしていたら「とう子ちゃん」と声をかけられた。ベッドのそばに父が立っていた。思わず身構えると、父は「昨日はごめんね」と言った。あれはごめんで済むことだったのだろうか、と思ったが、とりあえずうん、と答えた。父は少し黙ってから、「とう子ちゃんもおかしいところがあるけど、お父さんもおかしいんだ。お母さんに全部話してから帰ってね。お母さんは、おかしい人を大丈夫にしてくれる人だから」と言った。
そんなことで父を許そうとは思わなかった。ただ、この人はたかが離婚で娘の死に様を侮辱する程度にはおかしくて、そういうおかしさをずっと、妻に「大丈夫」にしてもらって生きてきたのだと思うと、苦しかった。苦しかっただろうと思った。
わたしは、なぜか父の手を握った。ふたりとも手が震えていた。父は神経の病気で、わたしは飲んでいる薬の副作用で、手が震えるのだ。
「じゃあ、行ってくるね」と出て行った父の背中を見送り、わたしは一連の騒動の中で、初めて泣いた。

年末年始の帰省をやめたのは、父に会うのが怖かったからだった。怒鳴られたり侮辱されたりするのが怖かったわけではない。父への恨みや憎しみが自分の中にどれだけ残っているかを知るのが怖かった。それから、顔を合わせたら、わたしたちは似た者同士で、誰かに「大丈夫」にしてもらわないと生きていけない性質の人間なのだと思い知ることになるのではないか、ということも怖かった。


今日、わたしは再来月に実家に帰ることを決め、飛行機のチケットを買った。

『タレンタイム〜優しい歌』という大好きな映画の再映が決まったのを知ったからだ。(昨年、渋谷シアター・イメージフォーラムをはじめとする各地の劇場にて、日本で初めて公開された。渋谷UPLINKにて、2/3から2/16まで上映。http://www.uplink.co.jp/movie/2017/49657 )

作品の舞台は多民族多宗教多言語国家のマレーシア。あらゆる差異を越えて、人と人が繋がり合うあたたかく優しい風景と、監督であるヤスミン・アフマドの「不寛容は敵」という言葉を思い出し、父のことが頭に浮かんだのだった。

父に会って、父を許すことができるのかどうか、試してみたいと思う。父のためではなく自分のために。自分の人生のために。不寛容な悲しい生き方でなく、寛容で豊かな生き方を獲得するために。死に様などどうあってもいいのだということを、生き様で証明していくために。

来月『タレンタイム〜優しい歌』を観に行こうと思う。人々が、分かり合えなさを越えて互いを思い合う美しさを見れば、勇気をもらえるはずだ。しかし当然ながら、作中全ての人々が受け入れ合えるわけではない。わたしは同時に、許すことが最も大きく困難な愛であることも知るだろう。それでもやはり、わたしは飛行機に乗り、海を越えて帰るのだ。それはきっと、本当の「敵」と対峙する第一歩になるだろう。

20171201

毎日日記をつけているという友だちが、何人かいる。
わたしも何度となく挑戦したものの毎回挫折してきたので、よく続けられるなぁ、と感服しつつ自分の意思の弱さにがっかりもするのだけど、この間、そんな日記継続中の友だちと久しぶりにご飯を食べ、お互いに終電ダッシュで別れて何とか電車に飛び乗った後、彼は今日わたしと会ったということを、そして話した内容なんかを日記に書くのだろうか、きっと書くのだろうと考えたら、素直にうれしくなった。
友だちの生きる日々の、ある一日に自分がいたことと、言葉を、願わくば思いを互いに交わしたということが友だちの言葉で記録される。いつかそれを読み返し、今日のことを思うかもしれない。わたしが寒い中なぜか薄手のシャツ一枚でやってきて目の前で震えていたことを思い出すかもしれない。
彼がそれを書いたその日と、それを読み返すかもしれない未来に、わたしがいる。わたしはその間、友だちと共に在る。
そう考えたら、人と共に在ることの根源的な喜びがわっと胸に広がった。
彼と二人で会うのは三年半ぶりだった。電車の中で、涙が滲みそうになった。

このブログも一応日記なのだけど、書きたいことがあった時しか書かない、ある程度人が読むことを前提として書かれているという点で、いわゆる日記とは大きく異なっている。書きたいことがないならそれはそれでいい。しかしなぜ、わたしは極私的な日記を人に見せるのか。

それはわたしが他人のごくごく私的な話を聞いたり読んだりするのが好きだということと関係している。
私的だということは固有であるということで、固有であるというのは、ただそれだけで特別であるということだ。私的な話の特別さは、いつもわたしの心を強く打つ。わたしの中に眠る、私的な話を思い起こさせる。そして二つの間に、関連性を見出させる。わたしは時にそこに、普遍を見たりもする。

極私的な話の中にこそ、普遍的なものがあるのではないか。それならばそれを誰かに開くことには何か意味があるのではないか。
自分の言葉に影響力があるなんて思ってはいないけど、何となくそういうことを考えて、ここで日記を見せている。
わたしがそうすることにもまた、人と共に在ることの根源的な喜びの破片があったらいいなと思いながら。

このブログを冊子にしようと考え始めたのは、少し前のことだ。
近視と乱視と潜在的斜視が混ざったややこしい目が年々悪くなってきて、パソコンやスマホの画面を見るとだいぶ疲れるようになってきた。
少し大きな文字で紙にすれば読み返しやすい。手で触ったりかばんに入れたり本棚にしまったりできれば、日々の記録が消えてしまう不安もなくなる。と、これまたごく私的な願望を抱いたのがきっかけのひとつだ。

売るのか配るのか、どこで、誰に対して、というところは、情けないことにほぼ決まっていない。まずはそこからのスタートになので、おそらく出すのは結構先のことになるだろう。
でもやろうと思っている。早く作りたいな、とも。もしも誰かの時間にわたしのある日の時間が立ち現れ、ふたつが重なり共に未来へ流れるのだとしたら、それは夢みたいに光栄で幸福なことだからだ。

20171115

時が経てば、悲しい気持ちは小さくなっていくと思っていたけど、悲しいと思う頻度が少しずつ減るだけで、悲しさの大きさは一切変わらないことを知った一年だった。
毎月、月の真ん中に赤いバラを生け、写真を眺めては、なぜこんなことをしているのだろう? と思った。本当は弔いたくなんてないのだ。会いたい。会って話したい。声が聞きたい。触りたい。それがいちばんの願いなのだ。今も。

一緒に行ったカフェ、すすめられたブランド、聞いた音楽、言われた言葉、もらったメールや手紙や、いいよねと言い合った宝塚のDVD。そこらじゅうにまみさんの気配があり、でもどこにも本人がいないということに、ずっと混乱し続けてきた。なぜ、という問いが胸の中に渦巻き続けている。誰かが知っているなら聞きたかった。なぜまみさんがここにいないのか。

こんなことは言ってはならないけれど、できることなら友だちや好きな人たちの中でいちばん先に死にたい、と考えるようになった。誰かが亡くなることにもう耐えられる気がしない。みんな、全員、一日でもわたしより長く生きてほしい。でも、これから年をとるにつれ、人との別れが増えていくことは避けられない。生きている以上、大切な人がいなくなる悲しさが次々に重石のようにのしかかってくるのだと思うと、生きることは地獄を這うようなものだと思う。

でも、この世に存在するあらゆる地獄から自由になる術を探して見つけて教えてくれたのが、雨宮まみという人の文章であり、人となりだった。何度も何度も、ああ生きてみるのも悪くないかもしれない、と思った。生きることの中にある苦しみを苦しみのまま投げ出さない、人生に対する誠実さを見た。今この場所でただ生きること、生きようとすることが、たぶん、雨宮まみという人を尊敬したわたしに唯一できることなのだと思う。

などという結論は、あまりにもありきたりで頼りない。しかし今は、どんな細い藁でも掴まずにいられない。掴める藁を少しずつ増やしていくことは、救いにはならないとしても、無意味ではないと思いたい。

死後の世界はない。まみさんはどこにもいない。前述の通りそれは痛いほど分かっているのに、それでも時折なぜか「元気でいるといいな」と思うことがある。やや偽善的だが、わたしはわたしに関わる人、関わった人たちには、みんな元気でいてほしいと思っている。友人や家族、それから疎遠になってしまった同級生にも、別れた恋人にも、この間新幹線の中でいないいないばぁをし合った知らない子どもにも。まみさんが元気でいるといいな、と思う時、わたしは自分が本当にまみさんのことが好きなのだと改めて知る。悲しみが決して消えないのと同様に、好きだという気持ちも消えることがない。ひたすらに悲しく淋しいが、わたしはこの人のことをずっと好きなのだ、と思えることを、幸福に思う瞬間も、確かにある。

わたしはまみさんが好きだ。悲しさとともに、その気持ちをずっと持ち歩いていきたい。それで何がどうなるわけではないけれど、それでも、わたしはまみさんを思い続ける。

20170916

台風が来ているというのに億劫だからと傘を持たずに出たら、案の定降られてしまった。
友だちの折り畳み傘の中に入れてもらいながら、新宿の西側を歩く。街の光が濡れた道路をキラキラさせていた。人の多いところにいたせいで体が熱くなっていて、左肩を打つ雨が心地よかった。

評判のもつ焼き屋で、40分ほど並んだあと、狭いカウンター席に座った。隣の男の人の体がみっちりと体にくっつく。不思議とそこまで嫌ではなかった。この人は、どこに住んでる誰なんだろうか。好き合っているわけでもないのにこんなに体をくっつけて、ごはんを食べていて、それぞれに笑っている。別にめずらしくもなんともないことだが、デニムのももとももが触れ、じんわり熱くなっているのが、なぜかすごくおかしなことに思えた。彼はパーラメントを吸っていたが、ふっと気付いたらテーブルの上の箱がなくなっていて、隣を片目で覗き見たら先ほどとは別の人が座っていた。彼が帰り、別の人が座ってきたことに、全く気付かなかった。
もうくっつくことのできない好きな人がいて、やっぱり触りたかったなと思う。夏、海のそばのクラブで、わたしの二の腕を二の腕で押し、耳打ちをしてきたことを思い出す。その内容や声は覚えているのに、肌の感じが思い出せない。冷たくて柔らかかったような気がするが、そうでないかもしれない。信じがたいけど、その二の腕はもうこの世にない。
忘れられないことと同様に、思い出せないこともまたたくさんあり、それらを自分の意思でうまく扱えないことが悔しく、また苦しい。

すっかり満腹でもう食べられないと思ったが、二軒目の台湾料理屋でも箸が進んだ。一軒目よりゆったりとしたカウンター席で椅子にだらんと体を預けたら、何だか途端に糸がゆるんだようになり、頭がぼんやりした。こういう感じは、ずっと続いている。楽しくても悲しくても、いつも頭のどこかがぼんやりしている。
話題はあちこちに移ったけれど、気付けば同じ話に戻っていた。わたしたちはいつまで同じことを思い続けるのだろう? と考えたけれど、全く分からなかった。映画や本や誰かがのこした言葉の中にその手がかりを探しているうちに、冬と春が過ぎ、夏も終わろうとしている。秋がやってくる。まだ、驚くほど悲しい。悲しさを持ち歩くということが、こんなにも力を奪うものだとは思わなかった。というか、そんなことは考えたことすらなかった。

帰りがけ、店の外でたばこを吸っていると、いつの間に出かけていたのか、先ほどまでカウンターの中にいた店員さんがコンビニ袋を提げて戻ってきた。袋の中身はミルクティーだった。
沖縄育ちの彼女は、台風が好きなのだと言う。台風がくるといつも傘をさして表へ出て雨風の中を遊んだと、ジェスチャーをまじえて話してくれた。
彼女は話しながら、さしてきた傘をたたもうとしていたが、風もないのにもう骨が何本か折れてしまっていて、なかなかうまくいかないようだった。しばらくの間いじくっていたが、突然、もう捨てちゃおう! と言って曲がった傘をぱっとゴミ置場に捨て、愛想よく笑いながら店の中へ入っていった。

友だちとは、抱き合って別れた。
大江戸線の車両の中は人がまばらで、心細く、快適だった。きちんと方向を確かめずにふらりと乗り込んでしまったので、どこへ向かうのかはっきり分からず心もとなかったが、特に調べもせず、そのまま窓を見ていた。

20170811

なくなってほしくないと思うものがある。

この間わたしは友だちを場外馬券場に連れて行った。まだまだ初心者ではあるけれど、一応一年半くらい競馬ファンをやっているので、競馬は初めて、という彼女をアテンドすることになった。

2レース買って、わたしはかすりもせず、友だちの予想の方がいい線をいっていた。いいところを見せようとひそかに意気込んでいたわたしは結構恥ずかしくて、単純に負けたことも悔しくて、でも楽しげな彼女を見たら、そんな気持ちはすっと消えてしまった。

馬券場を出て友だちの友だち夫婦と合流し、中華料理屋で小腹を満たしてから、食べ物は美味いが、店員が脈絡なく客を威嚇したり、大声で意味不明の嫌味やひとりごとを連呼する地獄みたいな立ち飲み屋を挟んで、いよいよメインのもつの店へ。以前来た時、運悪く臨時休業だったので、リベンジしよう、と言っていたのだった。
2軒目の店について、もう二度と行かない! と憤りつつも、あの発言やばかったよね、どうかしてるよね、と笑い話にしながら、川沿いを歩いた。一人であったら、こんな風に怒りをなめらかに笑い話にすることなんてとてもできない。三人と話しながら、一緒にいてくれてうれしい、と思った。
まだ陽は高く、気温もそれなりだったはずだが、狭い店で煙にいぶされた後ではぬるい空気も清々しかった。川は暗くよどんでいたが、それでもそばを歩くと気分が澄む。自然に川面に目が吸い寄せられる。物が動く時、人の心もまた動くものだとわたしは思っている。間断なく動き続けている、というのもよい。川の流れは、だいたいの場合、目の前でぷつりと止まったりしない。止まることのなそうなもの、少なくとも傍目には半永久的に見えるもののそばにいると、わたしは落ち着く。
もつ屋の暖簾をくぐると、接客の底辺を見た後だったので、笑顔でいらっしゃいませと言われるだけで感動してしまった。友だちのオススメのもつは絶品で、すっかりはしゃいで口が滑り、おしゃべりも弾んだ。
店は、手が空くと大将がギターでオリジナルソングを聞かせてくれるというのも売りのひとつで、まぁ一応聞いておくかとお願いしたら、これがいい曲ばかりで思いがけずじんとした。曲はすべて、その店のある野毛がいかにいい街か、大将が野毛のどんなところをどういう風に大事にしてきたかを、耳がすぐさま理解するような、純粋でまっすぐな愛の歌だった。
わたしたちの卓だけでなく、店中みんなが笑顔で手拍子をしていた。大将の老齢のお姉さんは、満面の笑みで厨房から飛び出してきて、大声で合いの手を入れていた。
わたしはひそかに、人が何かを大切に思う時の、切実な美しさに胸打たれていた。それを軽やかに歌というかたちにする、大将の慣れた手つきにも。

お腹も心も大満足の状態で友だちと駅まで歩き、別れ際、わたしは汗まみれの体で彼女を抱きしめた。抱きしめたかったからだ。それから笑って、手を振ってそれぞれ別の改札へ向かった。

好きなものは、思っているよりも簡単になくなってしまう。
競馬は、少子高齢化でこの先どんどん減収していくことが予想されていて、わたしがおばあちゃんになるまで続いていくのか、果たして分からない。わたしがおばあちゃんになるかも分からない。あの店もいつまであるか分からない。大将が歌えなくなる日も、必ずくる。
時とともに人は去り、店は潰れ、好いていたあの文化もあの娯楽も、衰退してかたちを失い、別の何かに変わる。本当に、心底残酷だと思う。
さらに残酷なことに、わたしは年を重ねるごとに、そういう類の喪失感をどんどん背負っていかなければならない。悲しみの負債は、たとえ大きな喜びがもたらされたとしても、決してチャラにはならないのだ。わたしはこの半年ちょっとの間でそのことに気付き、驚き、ひどく絶望したのだけど、もうそろそろ次の一歩を出さなければならないと思っている。かたちのあるものもないものも、いつかは分からないけどいつかすべて消えるけれど、生きている限り、悲しみは消えることがない。まずそのことを、受け入れなければならない。ひとたび悲しいと思ったら、もう一生悲しいのだ。そう思う頻度が時とともに低くなっていっても、悲しさの大きさや鮮度は、悲しいと思った瞬間のまま保存され続ける。忘れることなどできない。それでも生きていかなければならない。理由はない。生きている者は、生きなければならない。

わたしは生きるために、そして生きてもらうために、馬券を買い、もつを食い、歌を聞き、友だちを抱きしめる。いなくなるまで一緒にいてね、一緒にいてくれてありがとうね、と思いながら。
そんな程度の行為に、どれだけの意味があるのだろう、と思わないわけではない。でも、それ以外に一体何ができるというのだろう? 今のところわたしには、これしか思いつかないのだ。

愚直にやろうと思う。少しずつ歩いていこうと思う。大切なものに対して、臆病にならずにいたい。大切だという思いを、怯まずに伝えたい。なくしてしまったものを思いながら、勇気を持って何かを誰かを愛して、生きて、生きてもらいたい。

奇しくも(?)今日、岡村靖幸がライブ中にステージ上から「みんなのことが大好きだよ」というようなことを言うのを聞いた。少し涙が出た。言ってくれてありがとう、と思った。

20170430

結婚するずっと前、既婚者の男友達ふたりに、どんな時に奥さんを愛してるって思う? と訊いたら、ひとりは「ふてくされてる顔を見た時」もうひとりは「寝顔を見た時」と答えた。どうして? と訊くとふたりは似たようなことを言った。小さな頃も、こんな顔をしていたのだろうか? いつも顔をつきあわせているこの人の中には、小さな頃のこの人がいるのだと感じる、と、細かい言い回しは忘れたがこんな感じだった。
相手が過ごしてきた、自分には知り得ないはずの時間に思いを馳せる。実際にしていたかどうかも分からない顔を思い浮かべる。他人の内部に地層のように重なって積み上げられた時間、そこにある感情や表情や風景や音を想像し、それを尊いと思う時、湧き上がるもの。目の前にいるその人をその人たらしめている所以に触れようと思う時の気持ちを、愛しているというのかもしれない。
かく言うわたしも昨夜、夫の寝顔を眺めていた。慢性的鼻炎で、夫はいびきをかく。昨夜はいつにも増して豪快だった。朝起きたら聞かせてやろう、と携帯のボイスメモを口元にかざした途端、なぜかいびきは止んだ。32歳の男が、子どもみたいな顔ですうすうと寝息を立てていた。

先日、長いこと絶縁状態にあった兄と再会した。結婚して、夫の弟たちに会い、あれこれとおしゃべりをしたり、同じ食卓を囲んだりするうちに、この子たちと育ってこの人はこうなったのだ、とやけに感慨深かったので、夫にも同じことをしてやりたいと思ってのことだった。
創作イタリアンの店の個室のドアを開ける時、緊張した。今あの人、仕事とかどうなってるんだっけ。容貌さえ想像がつかない。どんな風に何を話し、好きな食べ物が何でどんなことに笑うか。わたしはここ数年の兄について、何も知らなかった。思い切ってドアを開けると、兄がいた。兄だった。わたしの知っている兄だ。面長で、富士額で、目は切れ長、鼻が大きく唇は厚ぼったい。32になるのに、チャラチャラした服を身にまとっていたが、特に驚きはなかった。立ち上がり、中途半端な笑みを浮かべながら夫に挨拶をする。これも見たことがある。絶縁していた数年は、共に過ごした18年にあっけなく敗れた。多くの場合、時間は長い方が圧倒的に強いのだ。避けてきたはずの兄の前に腰を下ろすと、もう緊張は消えていた。
兄の話はそれなりに愉快だったが、わたしの心を揺さぶったりはしない。これも小さな頃からのことだ。笑いながら相槌を打っていると、そういえばさ、と言う。「お母さんの飯って、微妙じゃなかった?」その一言で、わたしは昔囲んだ食卓の天板の質感、汚れ、茶碗の柄、弁当か何かについてきたのを使い回してカビかけている割り箸、麦茶の注がれたコップ代わりのワンカップを思い出した。そこには兄がいて、母がいた。家は、今では人の手に渡っている。
「おい、微妙だったとか言うなよ」
「いや、だって、おでんとかまずくなかった?」
わたしは笑った。確かにおでんはまずかった。ただいまー、と言っておでんのだしのにおいがすると、わたしたちはがっかりしていた。まずかったとか言うなよ、とわたしが言って、兄が笑い、すぐに話題は別のものに移った。
帰り道、夫は、お兄さんってとう子ちゃんに似てるね、と言った。どこが? とは訊かなかった。性格も生き方も真逆だと思ってきたが、夫はわたしたちに似ている何かを見出した。

未来について考えることがある。昨日わたしは、亡くなった友人の服を着て、その人が好きだった女子プロレスを観に行った。観に行ってみて、とずっと言われていたのに、結局観に行くことはなく、しかし彼女に勧められたから、というのとは別のきっかけで今になって興味を持ち、観に行った。一緒に観ている気持ちになるだろうか、と思っていたが、実際試合が始まると、それを観ていたのは、わたしだった。当然だ。彼女の目を借りることなどできない。しかしわたしは、わたしの目で観た女子プロレスに、すっかり魅了された。これからも観に行きたい、と強く思った。家に帰り、服を脱いでベッドに置き、顔をうずめた。これからもずっと着る。いくつになっても、似合わなくなっても、派手すぎると指をさされても、わたしはこの服を着続ける。着ないはずがない。この服には、あの人が着ていた時間が染みついているのだ。そしてこれからわたしが死ぬまで、わたしの時間が積み重なっていくのだ。あの人の持っていた、美しいものものを、借りることは到底できない。ただ、そこへ自分の時を重ねていくことはできると思いたい。わたしはこれから、彼女と共にあれるのかもしれない。共にありたい。その、見えぬ未来を勝手に思い描く気持ちもまた、愛と呼べるのではないか。